ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1124.アカデミックなこと〉

10月25日。

 

研究に興味のある友人とちょっと話をした。
アカデミックな話題は数カ月ぶりだったからなかなか頭が働かなくて自分にびっくりである。
とはいえ、久しぶりに研究の話をするとちょっとだけうずうずするところがある。自分の研究はとりあえず満足したけども、完全にやり切ったかと聞かれればそうだとは言えない。まだまだ道半ばであるのは間違いない。

 

 

学部時代のゼミの先生は、研究対象や研究地について、世界で一番詳しくなければならないと口酸っぱく言っていた。大学院の修士課程を終えた今ならわかる。その通りなのだ。
例えば日本の研究をするのであれば、日本全体について世界一詳しくなくていい。そんなの無理だ。そうでなくて、○○県○○市○○郡については世界一であったり、日本舞踊の○○流の△△という型については世界一であったり。規模はとにかくマクロでいいから世界一になればいい。レッドオーシャンの中からいかにしてブルーオーシャンを探し出せるのかが最初期には必要だと思う。そこで事例研究を重ねに重ねて、ようやく概論がわかってくるものである。

それでいうと、修士論文というのはようやく一つの事例が理解できて来たような、そうでないような、半人前な状態に過ぎない。広く理解したかったのに、結局なんだかわからない、次の謎が永遠に残り続けるような。
それが研究生活である。

 

 

久しぶりにアカデミックな話をすると、この謎に久しぶりに対面することになる。事件について概要は知っているけどオチを知らないコナンの事件に、10年ぶりくらいにであったような気分である。お前そういえばだれが犯人なんだよ、みたいな。

また論文を読み漁って、英語の分厚い本を読んで、専門用語たっぷりの理論書を読んで。そういう生活をする気は毛頭ないけども、分野を変えて同じような「研究」をしたい気持ちはある。
おそらくそれが来年度からの僕の仕事の仕方になる。ひたすら調べまくって、分析して、師匠にアドバイスをもらう。

研究の時よりアウトプットが多くなるとは思う。より多くのアウトプットをするためにも材料となる情報・知識をもっとたくわえなくちゃならない。
そう考えると、アカデミックでなくても、なにごとも研究生活なんだろうな。

 

 

話をした友人が研究をすることになるのか、はたまた実業的な方向になるのかは僕の知るところではない。
しかしながら、研究の仕方はどうなっても助けになると思う。調べ方、考え方、参考の集め方などなど。そういう意味でも大学院で初心者ながら論文と格闘したのはいい経験だった。

未知の海に漕ぎだすときのお作法を学んだのが大学院だった。来年度に進水式を迎えることになるが、新しい海は大丈夫かしら。

〈1123.海外料理屋さんのこと〉

10月24日。

 

タイ料理屋に行った。店員さんが日本人の男性とタイ人っぽい女性だったので、夫婦なんだと思う。なかなかおいしかった。いままで食べてきたタイ料理の中で一番だった。
海外旅行を控えるべき現状ではこれが最大の海外経験かもしれない。それはそれでいいものだった。

 

 

タイ料理を食べると、醤油のような日本の味がしないのが非日常感を出しているような気がする。醤油の代わりにナッツ系の甘いオイリーな味付けである。なかなかおいしい。米も普通の日本米ではなく、ジャスミンライスだった。麺もフォーだった。日本もタイも同じアジアだけど、こんなに違ってくるものなんだねえ。洋食に比べたら類似点のほうが多いんだろうけども。だからこそ相違点にやたら目が行くのかもしれない。上手かったから何でも良し。

 

 

最近になって、そういう海外の店主・店員さんが営むレストランに行くようになった。インド・ネパール系の人が営むカレー屋さん、ベトナム系のカフェ、トルコ系のケバブ
なんだろうね、根本的に日本人がつくるものと違うような気がして、お手軽海外旅行のようで楽しい。
調味料の違いなのか、材料の違いなのか、なんなのかわからないんだけど日本人がつくるものでは絶対に出てこない味である。

短期間だけど、お邪魔していたセネガルケニアベトナム、ネパールの食事を思い出す。短期間だからこそ、珍しいものとして楽しんでいたと思う。旅行の良さってそこにもあるよねえ。
日常の中でちょっと非日常がほしくなったらそういう店に行くのは大いにありなんだろうね。

 

 

もっと欲を言えば、そりゃあ直接海外に行きたいわよね。状況が状況だから仕方ないけども、逆に考えればこんな状況でも日本でレストランを経営し続けている海外出身の方には感謝である。
もし、気に入った店があったなら昼間からそこで食べて、店主と話をするのもアリだと思う。日本語が話せるというだけでもレアな存在である。友人もネパール料理が好きすぎて行ったことないけどネパール語をちょっと話せるようになっていた。

こういう時代だからこそ、ちょっとした幸せの探し方にも工夫があるといいのかもしれないわね。

〈1122.サブカルとかのこと〉

10月23日。

 

久しぶりに同人誌即売会に参加した。といっても売る側ではなく一般参加という買い手での参加である。
いわゆるオタク向けのイベントへの参加は学部時代からなかった。楽しかった。楽しかったけど、何度言っても慣れないね、あの空気感は。好きなんだけども。

 

 

苦手なポイント1。
ブース一つ一つがとても小さいところである。街中にある小さな専門店もそうだけど、店員さんとの距離が近いところはとても苦手である。なにか買わないと悪いような気がしてしまうのだ。モノをチェックした上で、買わないという選択をするというのは、つまりその商品に価値がないと判断をしたことになる。それを行動で示してしまうのがとても罪悪感のあることである。
同人誌即売会なんて露骨にそうだ。横長のテーブルに自作の同人誌を並べる。それを手に取ってもらって返されるのはなかなかにつらいもんじゃないのかと思う。もちろん、それだけの価値を提供できないものをつくっているのは悪いんだろうけども、リスペクトを表現できないのがねえ。

 

 

苦手ポイント2。
サブカルは好きだけど、公の場で行動するほど没入できてない。これが最大の理由である。「恥ずかしいこと」と認識しているのが根本にあるんだろうな。これはゲームとかアニメ、漫画にはまり始めたころからずっとである。

オタク的にドはまりしている自分と、そんなことをしている時間的余裕はないだろうという自分、この二人が常に同居しているから発生してしまうのだ。
後者の自分は自分の可能性を無限に信じてしまっている、青い自分である。これを失いたくはないけども、もう少し大人になってもいいだろうと思う。前者の自分は完全に趣味に傾倒している。こればかりになってしまったら、僕は社会的に生きる理由を失うと思う。
この二人の自分のうち、基本的には後者が優勢で日常生活を営んでいるけども、前者の自分が優勢な時というのは自分の部屋にいるときである。社会性を失っている時の自分である。

この社会的な自分と、非社会的な自分が同時に表に出てくるのが同人誌即売会に参加しているときの自分である。かなりしんどいのだ。
欲望的にはもっとどっぷりイベントを楽しみたいけども、理性がそれを許さない。悲しいなあ。

 

 

アニメイトのようなサブカル向け書店にいるときも同じ気持ちになる。まったくもってめんどくさい人間である。諦めて趣味にどっぷりになってもいいだろうに、それを許さない・許せない自分というのがなかなかカタブツである。これが激しくなったら二重人格にでもなっちまうんじゃないかと思う。

たぶんまた来年とかいつか、同じような同人誌即売会には参加するだろう。好きなんだもの。コミケとかにも行くんだろう。
そのたびに理性が早く帰れと訴えかけ、一時間足らずで帰路につくんだろう。そして満足感と後悔と共に電車に乗るのだ。

どうしたもんかな。

〈1121.高校生の観察〉

10月22日。

 

秋になって遠足や修学旅行の時期になった。バイト先に団体客がやってくることもあり、自分の修学旅行を思い出したりする。はっきりと記憶は残ってないけども、やたら楽しかったような気がする。
感染症が落ち着いたおかげでそういうイベントごとがようやく再開したのだろう。よかったねえ。

 

 

しかしながら学生の団体客を見ているとなかなか人間というのは面白い。スタッフに対する態度でなんとなくそいつの人間性がわかってくる。仲がいい人ではない人間との接し方は露骨なんですな。

 

例えば話しかけた時、自分の話をする奴、周りの話をする奴、スタッフの話を聞く奴。それだけでもどんなもんかわかるところもある。

 

自分の話をしたがる奴は幼稚に見える。幼稚園生や小学校の低学年ならほとんどがそんな感じである。そこから客観的な視点を手に入れると話題も自分だけに限られなくなってくると思われる。なので自分の話をする奴は、悪く言えば自己中に見える。

スタッフの話を聞くやつはなかなか大人びている気がする。相手の状況に興味を持つというのは、自分の立ち位置をどうしようか考えてのことであるパターンが多い気がする。その場その場に応じた自分を使い分けられる奴だと見受けられる。面白い奴であることが多い。

中高生なら仲間の話や学校の話をするパターンが多い。自分という個人ではなく、自分の所属団体に意識を向けているということかもしれない。年相応の精神の成長具合だということだろうか。

 

 

こう書いてみると、相手の話をすることがいいことだと思える。しかしながらそうでもないような気がする。
自分の話ばかりする自己中タイプの存在が気になるのだ。確かにネガティブにとらえれば、自分のことばかりで相手を気にしないタイプである。
しかしこの自己中タイプは、超天才型と紙一重だと思うようになった。場の空気、相手の顔色を見ないというのは確かに社会性が激しく欠如している。ということは、自分のことについてどこまでも深堀し、実現できるようなタイプであるとも言えるような気がする。
高校の時にそういう天才型がいた。友達が多くないやつだったけど、勉強と趣味のことについてはだれの追随も許さなかった。

「成功」「幸せ」をどこに置くのかが人によって違うから何とも言えない。どういう性格をしたやつがいいのか、言えなくなってくる。

 

 

テレビで取り上げられるようなビジネスマンとか成功者は超天才型のように思える。あくまでナチュラルに。
しかし、遠くから見ているぐらいがちょうどいいな。ということは「成功者」に僕はならないんだろうなと思う。それでもいいと思うな。僕にとっての成功はそこじゃあない気がするし。

〈1120.秋です〉

10月21日。

 

急に寒くなってきた。ヒートテックが活躍する時期である。
去年はもう少し秋があった気がするけども、夏から急に冬になったような気分である。

テニスをしていても、半袖だったのが急にウインドブレーカーである。群馬でも東京でも風がとにかく冷たい。
バイト中の立ち仕事も基本外にいる時間がながいので厳しい。先週まで半袖だったのに。ほんとに秋はどこに行っちまったんだ。

 

 

とはいえ去年の秋もこんなもんだったし、冬になるとより一層寒くなった気がする。つまり、今年も秋は予定通りやってきて、これからもっと寒くなるんだろう。
去年も同じことを書いた記憶があった。そのおかげで今年が異常ではないんじゃないかと思える。

 

書くとやたら記憶に残るってのはこういうことなのかもしれない。データとして残っているので見直すこともできる。どんなことでも記憶に残すってのは大事なことである。
環境のことは毎年のことだし、ちょっとだけの変化には気づかないし、時間が経てばまったく記憶にないことも多い。

 

 

いまでこそ、こんなこと書いてどうするんだと思う。しかしながら自分が75歳だったらどうだろう。もう残り少ない四季を感じるのはとてもしみじみするものだろう。ちょっとした風の吹き方ももしかすると最後かもしれないと思うととても尊く思うんじゃないか。

当然今は

24歳なので環境変化はストレスだけであり、それに対して特別思うことがあるとすれば旅行先での景色ぐらいだろう。

それを無理やりにでも文字にしてみるとふと気づくこともあったりする。仕事であれば、どうでもいいことでもとりあえず文字にしてみると気づくことがあるのかもしれない。
やはり考えていることを文字を通して形にするというのはなかなかパワーのあることである。言霊というのもなるほど。

 

 

さて、今年もようやく秋である。さみしく感じる時期になってきた。終わりが見えてきたりするのもこの時期である。
どんなことを感じたのか、ちょろっと文字にしてみるだけでかなり豊かになるものである。手持ちのメモ帳なんかいいかもしれない。スマホのアプリでもいいけどね。

〈1119.過去問題〉

10月20日

 

だいちのすすめでジャンプのとある漫画を読んだ。なかなか面白い。僕が知っているジャンプらしい型を外れているようで、それでいて王道パターンがあるような、不思議なタイプの漫画だった。
こういう未知を知ると、いつまでも自分は知らないことばかりだとわくわくするね。

 

 

自分が生きる上で大きな命題が与えられていると思う。

「なにかのプロになるとはその全てを知ること」
いつかこれを達成したいと思うと同時に、そんなの不可能だとも思う。資格的な意味でのプロではなく、専門家という意味でのプロである。

 

例えば、アフリカ研究のプロであれば、1980年代のそれぞれの地域について話すことができる。そしてそれを、経済の面から、政治の面から、文化の面から、などさまざまな観点から話ができる。


例えば、テニスのプロであれば、試合の場面場面で最上の選択ができるということになる。これを支えるのは本能的な勘と、これまで学習してきた「過去問題」から探ることになる。2015年全豪の二回戦での出来事から引用、というような。そして道具について知り尽くしたうえで自分に最上の選択ができることだ。
これを僕の命題でいう「プロ」である。

 

 

実際に教授であってもそれができるとは言い切れない。テニスのプロだってそんなこと不可能である。
しかしいつかはそうなりたいと思っているし、そうあるべしと思う。そういう命題があるので、僕はいつまでも学生なのである。来年からはクリエイターになるわけだが、他のクリエイターがこれまでにつくってきた様々な「過去問題」があり、それ全てを網羅したうえで開発したいと思う。
スーパー頭でっかちなプレイヤーが最強だと思ってしまう。

 

 

漫画もただの一読者であれば、刹那的に面白かった・面白くなかったという感情で終わりにすればいいが、漫画も一つの重要な参考資料になる。となると、やはり勉強するうえで網羅して、体系化したい。

完全な体系化のためには全てを知る必要があると思っている。
そういう上では、今回読んだような漫画も、おそらくなにかの「過去問題」の影響を受けているのは間違いない。まったくのゼロな開発物はありえないわけなので。

 

 

そう考えると、漫画であっても、映画・ゲーム・ドラマ・能・歌舞伎・演劇などなど、参考対象は無限にある。いわゆる「エンターテインメント」はこの世の全てが参考資料である。自然現象も「面白い」と思えたらネタになるわけなので。

こう考えると、頭でっかちを目指すとなかなかたどり着けない。つまり、プレイヤーでありながら研究家でもある二足の草鞋がベストだといえるだろう。

〈1118.体幹のこと〉

10月19日。

 

テニスをしていると露骨に体幹が弱いことを思い知ることになる。
例えば強打をした時。打ち終わった時に体が前のめりになる。つまり、ウイングスピードに体が耐えきれていない、筋力が足りていないことになる。
これが練習ならまだいいかもしれない。しかし、試合になると致命傷になってくる。今日はそういう話。

 

 

試合始まってすぐなら遜色なく戦えるかもしれない。
しかし、もともとの筋力が弱いと持久力もない。すると徐々に体がぶれるようになり、安定したボールが打てなくなる。体がぶれるということは、相手が打ち返してきた時のリカバリーが遅くなるということでもある。

ラリー戦での体力もなければ、試合全体としての忍耐力もないことになる。選手であれば致命傷である。
しかしながら不思議なもんだ。日常生活する上ではぶっちゃけ体幹の有無ってあんまり関係ないように思える。

 

 

そもそも日常で必要な筋肉ってなんだ。
人によって「日常」が示すところが大きく違うから何とも言えないけども、最近の世の中じゃあほとんど筋肉いらないわよね。
朝起きて、ご飯食べて、電車に乗って、デスクワークして、電車乗って、夕飯食べて、寝る。唯一使うのが、電車の立ち乗りくらいだ。
人によっては肉体労働もあるだろうし、僕みたいな立ち仕事というパターンもある。
とはいえ、体幹が活躍する機会ってないんちゃうか。どうなんやそこんところ。

 

 

ネットのGoogleさんに聞いてみたら、なんこかぽんぽんと回答を示してくれた。
ひとつ、怪我の予防。いざというときの動きの大元は体幹にあるそうな。確かにそうだ。体の軸を安定させる筋肉なんだろうからね。そうなると老化に伴って転んだりつまずいた時の、受け身や態勢の立て直しには大事である。
もう一つ。いつまでも一人で歩けるために。まあそうか。姿勢の維持にはかなり重要だろう。猫背の原因は体幹の弱さがあるとか聞いたこともある。骨の負担を減らすためにもまずは筋肉ということか。そうなると、年をとっても一人で動ける体であるのかもしれない。

つまり、一瞬一瞬の日常ではなく、長いスパンで考えた時の日常を維持するための土台として必要だということだ。

 

 

刹那的に生きる人であれば必要ないけども、刹那的な生き方が招くのは破滅だと聞く。ちょっと先の未来が楽できるようにするためには体幹があると良しということだ。

体幹レーニングは家の中でできるし、ランニングみたいな露骨な運動ではないので気軽にできる。
あたしはテニスのためだけど、未来のためにも体幹はがっちりしてるほうがよろしかろう。