ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

MENU

〈443.うまいやぁつ〉

443と言ったらシジミだ。

シジミ汁はうまいな?なんでだろうな。

調べたらきっと「〇〇の成分がどう」とか「〇〇という過程を加えてやるとこう」とか色々出てくるんだろうな。

 

 

"料理は工作みたいなもんですかねぇ。"家事が得意な先輩にいったことがある。

いろんなものを切ったり、貼り付けてみたり、削ってみたり。単純にそう見えたから深い意味はなかった。

 

「絵具のほうがいいでしょ。」

完成品は元の素材がみえなくなってたりするけども、味を辿れば素材がみえてくる。そのひとつひとつの素材がなかったら、その色には絶対にたどり着かない。

だからだそうだ。

 

 

元の素材はみえなくなるけど、それがなかったらその味にはたどり着かない。

好きだなこの言葉。

 

誰が言ってたかも忘れたけど、友達が前に言ってた。

「なにがきっかけか思い出せなくなったけど、僕が好きなものは僕を形作ってるし、嫌いなものもそれはそれで僕にはなくてはならないもの。」

友達Aという人間を作り出すためには、今日に至るまでの歳月分の出会いとか別れとかいろんな経験を混ぜ合わせる必要がある。その順番の間違いをしてもダメだし、分量を間違えてもダメ。つまり同じ人間を作り出すなんて無理で、共通点だと思ってたことも全然違う観点から同じものを見ていただけだということもある。

 

 

溶けてみえなくなった旨味のものを解明できた時、きっと料理はもっとおいしくなるんだろう。

そして、他の料理にも応用できることもある。

分析してみることは大事なんだろうね。

 

でも、旨味単体だと美味しくない。アジノモトが旨味成分だと聞いて白米にふりかけみたいにしたことある奴。僕だけじゃないと思う。

料理の中に溶けているからこそうまいんだろう。

 

なんか料理したくなってきた。

人間を作り出すみたいな、神話の中の登場人物になれるみたいでわくわくしてきた。

神になってやろうぞ。

しじみと関係なくなっちゃった!

〈442.強い言葉〉

「あまり強い言葉を遣うなよ。弱く見えるぞ。」

 

ネットで見かける言葉。もとは漫画"BLEACH"のセリフらしい。

残念ながらまだ読んだことがないのでわからない。調べてみたら、味方を裏切ったキャラクターが言ったとのこと。

どういうキャラクターで、どういうコンテキストで出てきた言葉なのかわからないので、漫画の中での使い方はわからない。ただ、研究書もそうだし、ブログやツイッター、いろんな人の弁論を見たり聞いたりしていると、ふと蘇ってくる言葉である。

 

 

漫画の中では、裏切ったことに対して怒りを表し、「殺す」と発したキャラクターに対して発された。

ここでは「殺す」というワードが強い言葉であるという認識になる。

 

「殺す」に限らず、ストレートな単語はインパクトがある。

英語でいうところの動詞が文頭にくる文法。禁止とか命令とか。ほかにも、「ありえない」「すべき」とかもそうだ。

新聞記事とか大衆雑誌の見出しなんかはストレートで強い表現が多いと思う。そのほうが面白そうだからね。

ツイッターもそうだ。短くて記憶に残すためには、強い表現が必要になる。

 

だが、疲れる。

 

 

疲れるの。すごく。「だめ!」とか「するな!」とか「しろ!」とか。

すごいですね!ただ僕には適応しないでくださるかしら。できれば見たくない。

あ、この僕の表現も強かったかしら。

 

こういう表現って、根拠が十分じゃない時に使われがちな気がする。それか、相手の意見は聞く気ありませ〜んっていう意思表示。

強い人がよく使っていらっしゃる。悪かぁねぇんだけどね。

リアルで使っている人が時々いらっしゃって。たまに会って小一時間くらい話すのは刺激になっていいんだけども、飲みに行きたいなとは思えないのよね。

 

 

相手を尊重しなさい!ってのも思わないんだけども、ちょいと話でもしやせんかね?みたいな姿勢で話をする人は自分も相手も大事にする好きな人だと思う。

 

少なくとも、僕が僕のことを嫌いだった時期は全力で強い言葉を使っていたと思う。そういう同族嫌悪もあるんだと思うんだ。

 

優しい言葉だけが正義じゃないけども、ちょいとうかがえる余裕があるのが、僕にとっての「大人」像なんだね。

 

強い言葉を遣う人が弱い人とは思わないけど、脆弱性を孕んでいるとは思う。もしくはその領域を脱した天才か。(良い意味でね。)

僕は使いこなせないやな。

〈441.まわされる寿司〉

寿司を食べた。

セネガルにいた時に一番食べたかったのがマグロとサーモン。魚の脂。食べたくて仕方なかった。

 

とはいえ金持ちではないので廻る寿司屋である。それで僕は十二分に満足。

しかしながら、誰がこれを考え出したんだろうな。廻る寿司。

 

 

Googleしてみたら、Wikipediaが我ぞと名乗りあげてきた。すげぇなお前、なんでも載ってんじゃん。

1958年の東大阪元禄寿司が始めたそうな。

1970年の万国博覧会元禄寿司が出展して人気を集めたそうな。

そんなこんなでフランチャイズでどうたらこうたらで激化していっているそうだよ。

 

 

いや、しかしだよ。僕はどうしてその開発に至ったのかを知りたいんだ。寿司側の気持ちにもなってみろよ。

それまで優しくプロがにぎにぎして、やさしーくご飯の上に寝かせられて、そのままお客さんの皿とか板とかの上に登場して「我ぞ」とドヤ顔で食べられてたのに、プロでもない大学生のアルバイトのビニール手袋の上からえっちらおっちら握られて、時々ご飯の上でナナメに寝かせられたり、ご飯から落とされて皿の上で冷たくなってたりして。あろうことか、渋滞でノロノロ走るくらいのスピードで人前にまわされ。人によっちゃあ何十分もおんなじところをぐるぐるさせられる。だれも見てくれない、時々「こいつ人気ねぇんだな」とか嘲笑われる。

人生に絶望し始めたところで、上の高速道路だと目的地まで吹っ飛ばして到着するサーモンなんかいやがる。やってられるかこんな寿司人生。

俺が寿司なら間違いなく大将のゴツゴツでシワシワになって、それでいて温かい手のひらで弄ばれたいね!

 

 

とはいえ僕は廻る寿司が大好きです。

無力にも運命に廻され続ける寿司ども。選ばれし者と選ばれざる者に二分される制度。そして最後まで廻され続けたあげく、きたねぇと暴言を吐かれクズカゴに投げ入れられる劣等者。

 

僕が寿司だったらどの運命に導かれるのか。それを考えると胸の高まりがおさまりません。

 

考えたことないけど。

【プログラミング学習日記】26日目~上っ面Kindnessは役に立つのか~

 

僕が覚えている上っ面Kindnessはこう


エスカレータに女性と乗る時、上りも下りも彼女よりも一段下に立つ

・レストランでは必ず椅子を引いてあげる

・タクシーに乗る時は頭を守る

・居酒屋は座敷を選ばない

 

要は、レディーファーストというやつを心がけようとかいう話だった。

 

もんじゃの言う通り「LOVE理論」という本から学んだ。

中学生でひたすらに女性にモテたかったあの時の自分には輝いて見えた理論だった。

 

ただ、この理論は大学2年の時に打ち砕かれた。

 

その当時の僕には、フランス人の彼女がいたわけだがどうも彼女が母国さながらの真のレディーファーストを求めているというかこのことで度々愚痴られていたのだが、そういう振る舞いをしろよと暗に命じられていた。そして、ふとこの理論のことを思いだし実践しようと思ったのだ。

 

あの時は、下りのエスカレータに彼女が乗ろうとしていたのだが、僕はかの偉大なる理論に基づき先に乗ろうとする彼女を引き留め、グイっと前にでて先に乗りこみ微笑を悟られないように浮かべながら見上げると、そこには予想に反して怪訝そうな顔をする彼女がいた。

 

「おまえ、全然レディーファーストじゃナイね」

 

その途端、つま先から頭の先まで冷たい何かが走り、身体の自由は効かなくなった。

頭の中は、パニックだ。

 

とりあえずゆっくりと、可能な限りゆっくり前を向き、階下に見えるきらびやかな宝石ショップのショーウィンドウに目を移し、もうなにも考えないようにした。

 

その後のことは、よく覚えていない。

 

とにかく言えるのは、この理論には欠点があるし世の中の淑女はやさしいだけの男性には惚れ惚れとはしないのである。

 

表面だけよさそうに見えても中身がド畜生の人間は何人か見てきた。

 

上っ面だけを取り繕ってもダメだし、女性は男性の何倍も観察力が鋭いことが多いからもはや僕には扱えない理論となった。小手先だけの技術ではなく本質を磨けということだ。

 

さて、、、、プログラミング学習の報告といきましょうか。

 

今日は、ポートフォリオで使ったHTMLテンプレートからこれからのコードの書き方を振り返っていました。

 

これを見て欲しい。

f:id:moji-village:20191213213120p:plain


各セクションの目次がCSSの最初についておりもうすぎょい!

これは後からCSSの修正を行う時に有効だと思うし、マネをしていく

 

〈440.上っ面kindness〉

12月12日。

 

上っ面kindnessってやつがあるらしい。僕はつい一昨日くらいに知った。しかし、内容までは教えてくれなかった。言葉だけ放り投げなれた。だから今日はその推測の話をしよう。

 

 

まずこの単語を二つに分ける。

上っ面とkindness。

 

上っ面という意味を調べてみる。

"物の表面。または、外見。うわべ。うわっつら。"

デジタル大辞泉、上面より。

なるほど、表面だけで、内面はないということで良いでしょうか。

 

続いてkindness。

1.親切、思いやり(があること)
2.親切な行為

英辞郎より。

親切な行動ってことでいいでしょう。

 

つまり、上っ面kindnessとは、

"表向き優しい行為を行うことであり、その内面は問わない"ということになる。

 

 

じゃあ実践編だ。

優しいと思われる行為。

 悩みをふんふんと聞いてあげる。

 道や席を譲る。

 細かく体調やメンタルをケアしてあげる、あるいは気にしてる素振りをする。

上っ面もkindnessじゃない僕が考えるkindnessはこうなる。

 

むぅ。この話聞いたことがある。

水野愛也さん(水野敬也さん)の「LOVE理論」(文響社/2013)だ。てか、この本にそっくりそのままその言葉が出てくるじゃない。

 

この本、モテない男がどうやってモテるようになるかという本。結論から言えば、ひたすら獰猛にアタックし、ひたすら想い人に優しくし、そしてやることやっちゃえということだ。

僕は単純に笑ってすっきり忘れてしまったが、友人の1人で実行しようとしたやつがいたなぁ。そいつは不器用でアホなやつだった。見てて面白かった。

 

 

上っ面kindnessねぇ。

いや、否定するつもりなんかさらさらないけども、その内面が黒いんでしょうから、怖くて仕方ない。というか実際、初対面の人でやたら優しい人に対して僕は構えてしまう。

なにか俺から引き出そうとしているぞと。金か、コネか、なんなのか。とりあえず信頼はしないな。

 

しかしながら、最初こそ戦略的に上っ面kindnessをしても、それが脳味噌に染み渡り、体が覚えてしまえば本当のkindnessになる。

身体化という概念が研究界隈では使われる用語だ。

自転車の乗り方とかもわかりやすいだろう。頭で覚えるより、体で覚えるということだ。

 

 

なるほど、上っ面kindnessとは、真の優しさを得るための最初のposeだったのか。水野さんはおそらくそこまで見越しての上っ面kindnessだったんだろう。

性豪の獣が真人間として成長するためには、まずposeから学び、いつしか本当のkindnessを得るとな。

 

さすがだいちさん。そこまで中学生の時点で見抜いていたとは。おみそれしやした。

〈439.没〉

12月11日。

 

日本寒すぎじゃないですかね。

先週まで昼間は半袖だったところから、急にいつでも防寒対策するというのはあまりに過酷であります。寒暖差で体調を崩すんじゃないかと不安で仕方ない日々でございます。

 

 

しかしながら、体をバイ菌から守る最善の方法をたまたま知っておりまして。体内アルコール消毒であります。つまり飲酒でございます。

飲酒をすると、体がポカポカとしてきます。そしてやたら陽気になるので"病は気から"という状態ではなくなるのであります。

 

 

そういうことで昨日のうちに投稿することを忘れ、今日になって下書きを書くだけ買いて投稿するのをさらに忘れていたわけです。

お酒ってのは怖いね。いや、お酒が悪いわけじゃないのよ。適当な僕の性格がお酒によって洗い出されたというだけで。

 

酒を飲んでものまれるな、というけども、のまれた時に出るのが本性でして。元からちゃんとした人間であればのまれてしまってもいいと思うわけです。

ちゃんとした人間ならそもそものまれることがないでしょうな。

 

 

つまり私はダメ人間ということでして。しかしながらお酒であったまったおかげで、なんとか風邪を引かずに済んでいるということで。

飲まずにはいられないッ!ということで今日のところは勘弁してくださいな。

〈438.特異点〉

12月10日。

 

体内時計はズレたまま。なんかずっと眠たい。シャキッとすることがない。

 

あ、そうだ。テニスがしたい。夜中にふと思う。いまから壁打ちに行ったところでなにも見えないだけだ。せめて体を動かして満足するとしよう。ランニングに出掛けた。

そして盛大にこけた。体も眠たいのかもしれないし、頭がうまく連動しなかったのかもしれない。ちょっと縁石に躓いて前まわり受け身をするはめになった。

 

 

体内時計がズレているのは仕方ないとしても、国家間の時間のズレをよく上手に計算できたものだ。不思議。どうやって最初に発見した人は計算したんだろう。時間っていう概念もそうだし、それをうまいこといじくって共通認識が取れるようになった。

 

仮に本社子午線の時間を世界共通だとしよう。

ロンドンで昼飯を食べているとき、日本は夕飯を終えてのんびりしていることだろう。ときは同じくしてアメリカでは朝飯を食べているかまだ寝ているか。

今の我々にとっての夕飯が「昼飯」になる。アメリカ人と話すときには、彼らは朝飯の認識で「昼飯」と言っている。昼という言葉を、イギリス人は昼と捉え、日本人は夜だと捉え、アメリカ人は朝だととらえる。

日本人「昼飯なに食べた?」

イギリス人「マクドナルドで済ませた」

アメリカ人「食パンにバター塗ってコーヒーで流し込んだ」

日本人「僕はステーキだけどね」

なんともまあちぐはぐな認識になる。それはそれで慣れればどうにかなるかもしれないが、これはすごくめんどくさいぞ。ただでさえ第二第三言語の習得は難しいのに、より一層理解できないものになる。時差という発想はなんとも便利なものだよ。

 

 

こういう発想ってどうやって生まれるんだろう。特異点っていうか。電気発明の瞬間もそうだけど、それがきてなかったら世界はもっと違ったんだろう。ワクワクする一方、こわさもある。

 

こういう特異点っていうのは、たったいる人たち自身は気づいてないんだろう。メタ認知はなかなかできないし、そもそも未来がどうなってるかなんて結果論でしか把握できない。

 

もしかしたらいままさに、我々は特異点に立っているのかもしれない。気付いてないだけで、人類の滅亡へ向かっているのか、はたまたとんでもなく発展する道を歩んでいるのか。

 

 

眠いのでおわり。SFの話ですよ。