〈1412.0時58分〉
8月29日。
2-3年目がぶつかるであろう、仕事の意義とかそういうのがわからなくなっている。
仮にこの仕事を続けて40歳になった時、果たしてそれはなりたい姿だろうか。
。
機会があって、会社の遠い先輩とご飯に行った。楽しかったし、いろんな経験をしているようで面白かった。
ただ、僕らのそういう悩みへの回答は、正直自己正当化に過ぎないよなぁと思ったのも事実だ。
だからこうやっていまがあるわけだし。
うーん。その今というのが僕にとっては懐疑的に思ってしまうのよ。10年後の僕が、もし飲みに連れて行ってくれたその人みたいな人生だったら。素直に書いてしまえばもったいないと思ってしまう。もっと強くありたい。
。
じゃあ転職したらいいのかといえば、そうではないだろう。もちろん手段の一つだろうけど、今の環境は手に入れたくても手に入れにくいものではあろうさ。
難しいね。
。
結局、自分の軸はないし、明確になりたい像がないからうだうだやっているのに違いはない。
早く軸を見つけろというのはその通りだけども。
院に行けば見つかるかと思ってたけど、そうでもなかった。
さて、明日も今日みたいに仕事をするのだろうか。
わからない。
〈1411.判断〉
8月28日。
一昨日の決断ももう揺らいでいる。会社のちょっとと遠い先輩に相談してしまうくらいだもの、まだ未練がましくテニスと口に出してしまった。
そしてその先輩は間髪入れず背中を押してくれた。
そりゃあ面白いもんな。ゲーム会社にいる体育会系はレアだもんな。でも大学ではやってないんだ。そのブランクは大きいぞ。
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ただのブランクが決断を鈍らせているだけじゃない。本気で立ち向かう厳しさに二の足を踏んでいる。
カロリーの大きさ、メンタル、体形などなど。とにかく日常にはない体験になる。
もちろんそれが楽しいから遊びとはいえ試合に出るわけだ。ただ、そこに本気度が加わるととんでもない勇気がいる。マネジメント能力も必要だ。
とにかく、勝つというのは大変なことなんだ。
。
やっぱりここまで書いていて、選択肢ないことの言い訳を並べているように思える。
本気でやって、叶わなかったときが怖い。そういう気持ちもある。
これはセカンドサーブなのだ。
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悩んでいるというのは、結論がもうすでに出ていて、勇気がないだけだ。
出した結論をひっくり返すことになるが、やっぱりすべて手に入れたい。
逃げずに、次の3月はトロフィーを持ち帰ることに専念することにする。
〈1410.考え事〉
8月27日。
僕にとってテニスって何だろう。
名誉欲を満たしてくれるところだ。過去を見れば県内で優勝もしたし、運動音痴で微妙な男も脚光を浴びることができた。ただそこに尽きる。
じゃあ本職の意義って何だ。
クリエイトしたい、表現したいってなにをだ?やっぱりそれも自分のことなんだろう。自分が楽しいこと、辛いこと、嬉しいこと、苦しいことを主人公みたいに書いてみて、それを評価されたい。
うーむ、こうしてしまうと恥ずかしいくらいに自己中心的だとわかってしまう。
。
自分の苦しいを描いて共感されたいというのは間違いなくある。お恥ずかしいことに。
ただ、全ての出発点はなんだったかというと、最初に買った音楽アルバムだろう。
東方projectの大空魔術というゲーム音楽のアルバム。ニコニコで知った東方というジャンルからゲームではなく音楽CDを買った。
それの、いわゆる歌詞カードに音楽に関連した小物語が書かれていた。それがすごく素敵だった。
それを作りたいというのは間違いのない話だ。自分が主人公というのは置いといて、ちょっとした物語とそれに見合った別の何かしら。そういうセットのものを僕は作りたいんだ。
。
ゲーム会社で勤めて、このままだと僕のやりたいことは出来なさそうだと思いつつも特に対策を打たずに過ごしていた時、
久しぶりにテニスをしたら燃える情熱が吹き出してしまった。
いまの個人ゲーム制作にむけての活動にはその情熱がなかったのを痛感した。
そこがやりたいわけではないんだ。
でも、テニスでもない。テニスはある意味現実逃避先に過ぎない。
という流れで、僕はやっぱりなにか考えたことにちょっと物語をつけて表現したい。
。
お、それなら物語とそれに見合った音楽とを作って、その先でちょっとしたゲームがあればいいじゃん。
そしたらコミケとかでやってみればいいじゃない。
それがいいや。そうしよう。
【1409.いつもの話】
8月26日。
仕事が楽しい。これは真。
趣味が楽しい。これもまた真。
。
地元に戻ってテニスの試合に出た。全く練習していない中、初戦は勝った。部活で必死にやってた時のお釣り。
次戦、大学生に負けた。完全な脚力と体力の差である。固定砲台だったら勝てるけど、試合はそんなわけない。返ってきたボールがなんも取れない。無念。
ここで僕の目の前に選択肢が現れた。
A:テニススクールに通って次大会は勝ちに行く
B:これまで通り、大会直前にちょろちょろ練習してみて遊びで終わらせる
C:これに懲りてもう大会には出ない
これを考える上で、仕事と人生と趣味と、そこらへんの存在意義とかから問い直したい。
。
まず、仕事というのはなによりも生きる術である。収入を得て家賃や食費を払う。
そして、自分のアイデンティティでもある。某ゲーム会社で働いて、売ればどこかで自分の名前を見つける人がいるだろう。昇進できれば自分が作りたいものをつくれるかもしれないね。
作りたいものが作れるようになれば、自分が生きる意味も見出せる。もちろん、今生きる理由がないなんていうことはないけども。
つまり、今を生きるため・未来をより良くするためにも仕事が最上位であることは揺るぎない。
。
じゃあ、いまの僕にとってテニスとはなんだ。
地元の大会がない時は、プロの試合結果を追いかけて一喜一憂する。大会が近づけば練習してみたり、ランニングしてみたりする。
メリハリにはなっているだろうけど、必須ではない。健康にはなっているけど、大会に出なくてもよい。
割り切ってしまえば、将来のやりたいこととテニスはほぼ無縁であり、その時間があるなら自己研鑽に励みなさい。無駄なんだから。
理性的に、合理的に、効率的に考えればそうなる。テニスにかまけてる暇があるなら、仕事で結果を出せるように勉強するがよろし。
そんな割り切れないの。
仕事が楽しいのは間違いないけれど、テニスが楽しいのはまた別ベクトルで間違いのないことなのだ。そういう体になってしまっているんだ。
でも、全部を手に入れるほど器用ではないのを理解している。
。
たぶんテニススクールに通い始めたら楽しくなって仕事を定時であがりはじめるだろう。勉強時間もテニスコートに立つことになるかもしれない。
そしたらきっと今描いている夢・目標が遠ざかるだろう。その代わりに大人テニスのトロフィーが手に入るかもしれないね。
趣味とは…
1.専門としてでなく、楽しみとして愛好する事柄。「―は音楽だ」
2.物事から感じ取られるおもむき。味わい。情趣。「―のある絵」。物事の味わいを感じ取る能力。(それに基づく)好み。「―がいい人」
(Oxford Languages、ググったら最初に出てきた)
そこまでやってしまったらもう専門だ。
専門にするなら、人生を費やしてお賃金をもらえるようになるべきかもしれない。
でもそこに意義を見出せないのもまた真である。
視野を広げて人生を考えるのであれば、それはやっぱりクリエイターとしてなにかしら成し得たい。テニスではないんだ。
中途半端に燃え尽きれないまま引退したからこんなことになってしまった!
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つまり。
大学生に負けた悔しさはあるけれど、それはそれとして割り切るべきだ。あくまで僕は本業が1番だ。
ただし楽しいんだもの、次回も大会に出るだろう。出るんだったら勝ちに行きたい。
となると、取るべき選択肢はAでもBでもCでもなく、勝ちに行けるように敗因の脚力をつけるということだ。テニスレベルはどうせ大差ないんだから、走り込みさえできれば勝機が見出せるだろう!
つまり、ダイエットというわけです。
すみませんでした。
〈1408.おじさんのアドバイス〉
6月1日。
僕が市大会で初優勝したとかでちょっと調子に乗っていたころだから、10歳とかそれくらい頃のこと。
地元のおじさんとテニスをしていると、突然「素振りをして」と言われた。
まあこの地域で市大会優勝はレアだもんなあと鼻高々に自慢のフォアをブンと一振り。
「じゃあバックも」
まったくもうこのおじさんはしょうがないなあ。それほど自信はないけれど、ファンの要望にはこたえなくちゃならない。またブンと振ってやった。
「じゃあ次はゆっくり振って」
そんなじっくりみたいのか。しかしゆっくり素振りなんかしたこたことがないので、おっかなびっくりのひょろひょろだった。
まあこんなものかと、130cm・30kg前後の少年はおじさんにドヤ顔を向けた。
「自信があるのはフォアでしょう。自信があるほうがゆっくりでもちゃんと素振りができる。反対に自信がないものは早く振って適当にごまかす。バックはもっと練習が必要だな」
なんともこのおじさんがファン1号ではなく、ただの審査員だったのも無視できないが、それ以上に図星だったのが衝撃的だった。
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16年くらい経って、ゲーム会社で「企画書」や「仕様書」を書いている。
考えるのが楽しいので、ガンガン書いて先輩に見せてを一年くらいやっているが、最近になって致命的な弱点に気がついた。
仕様の抜け漏れは、まったく気が付かなかった部分では”ない”場合が多いことである。
気がつきつつも、細かい部分だから指摘をもらって修正すればよしとしているものが、実は結構大事な部分であることが多そうだ。
とにかく経験をたくさん積んで、はやく一人前の戦士となることを第一としてきた。
その結果として機会には恵まれてきているが、どうも自分のクリティカルヒットの打数が少なすぎる。打席に無理やり立たせてもらう代わりに、三振やゴロになりがちである。
。
そこで、冒頭のおじさんが出てくる。
「自信がないものは早く振って適当にごまかす」
これが再び自分に向けられている。
テニスについて言えば、ロードローラー的にひたすら100本200本打つことで、県内では真似されないハードヒットを手に入れた自負はある。ただ、関東大会で勝てなかったのは、そのハードヒットがどうやって打ち出せるのか、どういう場面で使うべきなのか、よーく考えてこなかったからだと思う。
26歳の僕も、再びロードローラー方式で、ひたすら企画書・仕様書を打ち続けている。テニス同様、そのうち頭打ちするに違いない。ミクロに詰めて考えることができないからだ。
例えばマリオのジャンプを「60fps」で考え抜いた結果、実はジャンプする直前で一瞬膝を曲げるとよりリアルになるという発見ができ、プレイヤーの満足感の高い仕様の発注ができるかもしれない。
それが今はひたすら「1fps」で回しているので「マリオは80cmのジャンプをしましょう」という雑なオーダーになっている。
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小雨のなか、167cm・87kgの要ダイエット成人が1カ月ぶりに素振りをしていると、妙に胸まわり・腹回りのキレが悪い。肉による可動域の縮小化もあるだろうけど、スイングスピードの著しい低下を見逃せなくなっていた。
そもそも、肘をまげるタイミングってどこだっけ?膝はどれくらい曲げる?そんなことを考えていると、おじさんがにまにましながらこちらに向かってくる。
「自信がないものは早く振って適当にごまかしちゃう」
配属されて半年と少しが経過し、ずっと解決しないもやもやの糸口を16年前のおじさんが持ってきてくれた。
60fpsで考えることにするから、そのわかったような笑顔はやめてくれやい。
〈1407.親愛なる妹へ〉
4月3日。
今日は昼の退勤だった。
平日昼間の群馬行きの電車でも、それなりに人は乗っている。すかすかの電車じゃなくてよかった。
午前の仕事はストレスだったのかもしれない。気がつけばまわりの人は反対側に一人いるだけ、最寄駅に着いていた。
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妹はいつものところで横になっていた。
獣医からはもう家で過ごしたほうがよいと言われていた。
それからちょうど1ヶ月経とうかとしていたところだ。
相棒の柴犬が逝ってからまだ半年経たずだ。それほど仲良しだった弟妹ではなかったけれど、やっぱり寂しかったのだろうか。
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妹は公園のダンボールにいた、と思う。親父がナイターで地域の人とテニスをしていたら見つけられた。
そしてその晩には我が家に迎え入れられた。
その時は両手ですっぽり包めるようなお人形だったのに、半年くらいで10kgは超えた。
君は甘えていたんだろうが、猛牛の突進を思わせる力強さだった。最大15,6kgくらいだったろう?兄の飯を横取りしすぎなのよ。
僕が実家にたまに帰ってきても、特別喜ぶ様子もない無愛想さは覚えているぞ。そのくせおやつの袋をガサガサやると飛びかかってくる。
まったくもって分かりやすかったさ。
不満があると、庭から部屋のガラスをガンガン叩いてアピールするし、雷が来ればその巨体で股下に潜ってくるし、いくつになっても子供みたいだったな。
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桜が散って、さあこれからという時にこれだもの。相変わらずワガママな君だ。
病気はきっと苦しかったろう。どうか安らかに眠っておくれ。
兄貴は社会人2年目になったよ。
君に会わなくなってから8年経ったけど、中身は大して変わらんよ。
しっかりした番犬だった兄と比べて、肝心な時にビビり散らした君。やっぱり僕に似ていたと思うんだ。
捨てられていた君を拾ったのが、ウチで幸せだったかい。
目立つような幸せはなかったけれど、君がいた日常はきっと数段明るくなっていたよ。
ありがとう。
せめてそっちでは、兄と仲良くしてくれな。
〈1406.未来は明るいか〉
3月31日。
毎年この時期は年越しだと思う。
身分が変わったり、環境が変わったりで目まぐるしい。
12月の年越しはそういう節目だとだけでいまいち心境の変化はないように思う。3月31日から4月1日になるとその瞬間に身分が変わる。社会的な存在として変化がある。
ただ、今年の3月31日は、いつになくさみしく感じるものだった。
はじめて、推しが終わる瞬間を感じることになった。Vtuberミライアカリちゃんの引退だった。
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最初の動画は2017年にあがっているようだ。
僕は大学3年で、インターンで削られる日々だった。サークルの運営をやっていて楽しかったけど疲れる日々だった。
家に帰って、パソコンやスマホでニコニコ動画を見ながら冷たい総菜と米を飲み込み、嫌々眠る日々だった。
そこで見たのが初期も初期のVtuberだった。
キズナアイさんの動画を見たりしているうちに、ミライアカリちゃんの動画が出てきたんだと思う。
めちゃめちゃどっぷり浸かっていたわけではないけれど、ふと動画を見てはかわいい姉ちゃんがアホやってんなあと救われるものだった。
なかでも「ECHO」というボカロ曲を彼女が歌っている動画はよく聞いていた。
好きな曲を好きな人が歌っているのは良い気分転換だった。院試とか論文とか就活とか、そういう厳しい時期によく聞いたものだ。
説明は難しいけれど、地元にある、ときどき遊びに行った駄菓子屋とか遊び場が閉店するような、そういうさみしさがある。
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大きな会社がバックについてから、活動の自由を制限され、結局落としどころがなく引退という選択肢になったらしい。
それは仕方のないことでもあろう。大きな会社というのはそれだけ影響力があるわけだし、発信力のある一部が自由にしすぎたせいで、全体が崩壊する危険性も孕んでいる。
Vtuberという文化とマルチな手広い会社という組織はそもそも適合しないものだったのだろう。
それだけに、さみしさがある反面、これから起きるかもしれない「落ち目」を事前に察して引退したのかもしれないという納得をすることにした。
初期のころのように個人でやっていたらそれが正解かと言われればそうとも言えないのだろう。
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文化というのは難しすぎる。
個人や集団が意図的に作り出せるものではないし、なにより運営し続けたり経済力を大きくしようとすればするほど破壊への道が待っているものである。
そもそも文化を作りだそうとする時点で間違っているのだろう。大衆が受け入れて、勝手に生活に溶け込んだ先で始めて文化としてどんどん変容していくものなんだろう。
「○○祭り」というのが100年前に始まったとしても、まったくそのまま100年続いているわけではあるまい。勝手に受け入れられた部分のみが残され、不要とされたものは引き継がれなかった。
そもそも祭りに主体はいない。神自らが崇めろ!という祭りがあれば、たぶん長続きしないんだろう。
概念に対して、集団が賛同し共鳴することで文化が生まれるように思う。
大企業は確かにブランドを落とさないためにも発信する情報を拘束する必要はあるけれど、それだと個人は犠牲になるよなあ。
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今日、同じチームから外れた先輩に対して、上司が発した言葉がよかった。
「これからのところでは根本的な面白さを追求する仕事をしてください」
大きなプロジェクトとか、長期間のプロジェクトにいると、正解を探す仕事を続けることになるだろうし、上司の顔色をうかがわざるをいけなくなったりするし、なにより個人は犠牲になるような気がした。
チームから外れた先輩が犠牲だったというわけではないと思うけど、自分がこのまま同じチームで10年働くというのであれば、たぶんそれは不幸だとちらと思った次第です。
どうせ生きるなら楽しくいたい。楽しくいるなら、自分として発信したい。自分として発信するなら、力を付けて広く伝えたい。
なんかそういう所信表明的なことを思った、年度末でした。
未来で探します。