ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈658.明日は来るのか〉

7月17日。

 

ようやく終わった。

部内試合だと思って準備をしてたら、対外試合の観客付きだったような。そういう研究会発表だった。もちろん、僕は団体メンバーだったとしてもライト8番みたいな立ち位置なので、注目を集めることはない。やることやって、無難なコメントをいただいて、終わった。ここからですね、みたいな明るい締めをいただいた。

この1ヶ月のオモシを抱えての生活は無駄ではなかったらしい。ようやく熟睡できる。

 

 

しかしながら、なにごとも「今日できることは今日やってまえ」っていうことなんだろう。

フィールド調査で言えば、現地での調査に「まあここはいっか」は通じない。文献調査でいえば「ここは隣の分野だし後回しでええでっしゃろ」これもない。ナンセンス。

そのナンセンスを重ね続けたこれまでだったので最近になって苦労したし、フィールドでも来年また来るしその時で、のその時が永劫来ない。やれることやっとけ、という学びを得られた発表になった。

 

 

明日やろうは馬鹿野郎、これをだれがおっしゃったのかは知らないけど、わかりやすくて語呂がいい、好きな言葉だ。好きな言葉ではあるけれどそれに徹することはあまりなかった。身近であるほど見えない、ということにしておこう。

明日やろうという人は、明日になってもまた明日やろうと言う。そういう癖がついてしまっている。

高校生のころは、そんなこと言っても明日になってやる気を出せばそんなことないだろうと肩をすくめてため息を吐く、みたいななめた態度で流そうとしていた。

しかし、その「明日になってやる気を出せば」という自分のことなのに他人事な時点で明日もきっとダメだ。戦略的撤退ではなく、ただの逃避に過ぎない。

 

「明日って今さ」と言える勇気が、少なくとも僕みたいな人種には必要だね。勇気がなければ明日は来ないぞ。

これを機に、僕に明日が来ることになればいいが。

 

 

戦闘力99日目

753(+10)

勉強+10

だれがなんと言おうと、頑張った。褒められはしないけど、労ってはもらえた。無駄な一年半ではなかったようだ。

〈657.賢者の要素〉

7月16日。

 

この1ヶ月ちかくでかなり知識をまとまった形にしたと思う。結局、インプットも大事だけど、それよりもアウトプットでまとめることが必要なようだ。しばらく続けていたインプットをパワポ30ぐらいにまとめてみると、もちろん抜け落ちはあるけども、話をする上で必要な知識は残すことができている。これがそのまんま脳みそにインプットできたらそれに越したことはないんだろうけど、それもまあ無理な話だ。時間がもったいない。それなら今ある知識とこれまでまとめてきたノート(記憶媒体)で戦う方がよっぽど効率いい。

 

 

しかしながら毎度思うんだけど、これは自分がほしい知識だけを集めて、都合が悪いところは全部無視、ということとも言えなくもない。これが難しい。いかに選り好みせずに知識を集めようとしても、やっぱり感情がそううまくは働いてくれない。面白いと思うもの、楽しいと思うものばかりを集めてしまう。

出来上がった「知識」と思い込んでいたやつが、自分が都合良いように組み上げた「偏見」にもなりうる。

 

むずかしいもんだね。

 

 

誰が見ても賢い人っていうのはどういう人なんだろう。そこらへんの選り好みしていることはもはや諦めて、そんなところで足踏みせずに新しいもの新しいものを探し続ける人だろうか。

しかし、それだと浅はかな人に見えてくる。

 

ひとつ深い知識があって、それを類推で分野横断型に使える人。つまり、具体的な事象から抽象的な事象に持ち上げて、普遍性を見つけ出すことができる人。

これかもしれない。そうなるとやはり、選り好みせずにとにかくたくさん知識を集めて、そして、それを抽象的にまとめあげる。

それが、頭の良さだと思える。

 

そのためには、これは偏見くさいっていうのを嗅ぎ分ける嗅覚が発達してる必要があるな。つまり、好き嫌い言わず食べてみて、まずいおいしいをわける。結局トライアンドエラーってことか。

 

 

戦闘力98日目

743(+8)

勉強+5

運動+3

 

そうなると、ひとつ賢くなったけど、まだまだ類推できるくらいのレベルには落とし込めていない。ここからまた勝負し直さなくちゃならないわけだ。

〈656.心と風景〉

7月15日。

 

なんだか不思議な気分だ。

今日は最近毎日雨が降る。一日中じゃないけど、起きてから寝るまで、必ずどこかで雨に出会う。ずっと雲が覆っていて、太陽を最近ずっと見てない。

 

今日も家でパソコンに向かって、雨が弱くなった頃を見て外に出た。雲が薄くなっており、雨に降られずに大学院にいけそうだ。いつもの道で鴨川が見える。最近はずっと濁流だった。今日もそんなに澄んだ色はしていない。

 

人がいない橋の上からチラと鴨川を見るときれいな青が見えた。ここ1、2週間見てなかった色。どうしたことか。薄くなっていた雲に切れ目ができて、きれいな青空が一瞬見えている。それが川に映っているらしい。川そのものが濁っているだけじゃなくて、曇天も川を濁らせていたようだ。

 

 

ちょいと電車にのる用事があった。ちらほらと人がいる。相当ガラガラじゃないかぎり僕は椅子に座らずに立っている。ちょうど立っているくらいの人数だ。また曇天になった空を窓からぼんやり眺めていると懐かしい景色がある。2年前学部生の頃に住んでいた街やちょっと遠出しようとしたら通らなきゃいけない長い国道。

ついこの間のことなのに、なんだかずっと昔の、もう手に入れることができない宝物を眺めるみたいな、そんな気分になった。

 

 

自分の気持ちは自分で作っている以上に、まわりの環境が作り出しているような気がする。そりゃあ心を自分で操れたらそんな楽なことはない。それができないから、美しいものを作り出したりもできる。心っていう概念を作り出した人間は恐ろしいよ。全人類を心の概念の中に押し入れてしまったんだから。

社会心理学みたいな学問では、その個人の心をないものとして学問をスタートさせるらしい。僕ら初心者はそれに一番苦しむ。心があることが前提になってるもの。生活の一部。

 

それがいいかどうか判断するのはどうでもいいことで、あるならどうするのがいいか、ないならなんであると思っているのか。そういうのを考えることが建設的ってやつだ。

心が人にはあるから、信じるわけだし優しくしたいと思う。心が仮になくて心があるって信じる現象が起こるのは、そういうふうな概念を持ち出さないと説明しきれないことがたくさんあるから。感情はどこから来るのか、とかね。まァこれこそ考えてもしかたねえことだ。やられてうれしいことを、隣の誰かにもやってあげればいいだけじゃないの。

 

心っていうのを考えようとしても仕方ねぇや。そういうふうに世界が映るんだもの。

 

 

戦闘力97日目

735(+7)

勉強+2

運動+5

 

ひさしぶりに運動したらからだバキバキです。いきなりたっぷりやるんじゃなくて、積み上げることが大事なんだな。

〈655.職人技〉

7月14日。

 

落語を見る機会があった。生ではなくオンラインで。観客の反応が見れないまま話をするのは落語家さんに限らず人を笑わせる仕事の人はきついだろうな。

それでもコメントやら反応ボタンやらを使って、できるかぎりコミュニケーションを成り立たせようと見る側も慣れないところで頑張りましたよ。おかげで話をちゃんと聞こうと思いますから、いつもと違う楽しみ方ができたわけです。

 

 

学校の授業の中で落語家さんがお話をするわけです。ひとつネタを終えると質疑応答みたいな、直接コミュニケーションを取れる時間がありまして。そこで落語家さんの知恵をいただける面白い話がまた出てきまして。

話し方はもちろん、内容もちゃんと面白いんだもの。人間が仕事をつくりながらも、仕事が人間を作るところもあるんだろう。すごかった。

 

 

落語をテレビや動画で見たりすることもあるわけですが、生で見たのは一回きりでして。

「伝統文化」って言われるのはもっと頻繁に見るべきものですな。歌舞伎も能も、他にもたくさんあるわけですが。もちろん昔そのままのところもあれば、現代化しているところもあるんだろう。あの演劇という一方向ながら、観客の反応が劇の一部に含まれてるみたいな、ああいうインタラクションというのかしらね、楽しい。それが日本の文化だ!というつもりはないけど、その即興性はひとつ大事なところなんだろう。

 

 

即興性でいうと、その落語家さんはすごかった。電波が悪くてちょっと止まったりしたら、そこからパソコンが苦手な話を展開したり、質疑応答でかなりオープンな質問(いままでで嬉しかったことは?)がきても、きちんと具体的なエピソードを交えながら、それでいて教訓的なところもあって、聞いてて飽きるところがない。

ご本人もおっしゃってたけど、師匠のもとで毎日いつ何時でも相手の心を推し量る修行をしてるんだってな。やっぱりすげえや。職人技だ。

 

そういう職人技がほしいなぁ。あの人なら大丈夫。そう思ってもらえる領域が一つくらいね。そしたらきっと、会話がもっと楽しいんだろう。

 

 

戦闘力96日目

728(+14)

勉強+10

その他+4

 

今日はよくやったぞ。やりすぎて目が冴えてしまって寝れなくなったのはなんなんだ。

〈654.苦いあじ〉

7月13日。

 

いまさらいうことでもないがテニスが好きである。同時にテニスプレイヤーを尊敬している。高校生までテニスをして生活をしていたようなものだが、あれをあと10年続けるというのはメンタルが持たない。さらに言えばトッププロと言われる人々は人間であるかすら疑う。とんでもない人たちだ。

なんだけど、どうも好きになれない選手がいる。

 

 

その選手について、プレイヤーとしてはすげぇなあと思うし、プレイ外での行動もほとんど文句はない。尊敬している。

なぜ得意になれないかというと、自分のライバルだった友人にどうも重なるから。それだけだ。

 

なにが重なるかわからないけど昔っからそう思ってた。プレースタイルも似てないわけではないが決定的な理由ではない。お調子者というのは確かに被るけど、それでもない。

となると、自分が特に好きな選手とのライバル関係の構図が似ているのかもしれない。

 

 

好きな選手というのは、真面目でそれほど気の利いたことを言うわけでもない。ひたすら真摯に向かう姿勢が好きで今も昔も理想形であった。

だから勝手に好きな選手に自分を投影していて、その最大のライバル選手のことを自分のライバル選手に映し見てて好きになれないのかもしれない。

 

それじゃあ、現実の僕のライバルのことをちゃんと好きになれれば、プロ選手の好きになれない選手のことも応援できるようになる、つまり現実のライバルのあいつのこと好きになれてないということが反射的に理解される。

 

 

たぶんそうだ。過去のライバルに過ぎない。いまはそいつがないやっているかはわからない。あまりいい噂は聞かないけども、それがどこまで真実かわからない。

大学入ってからも何回かは会った。最近はさっぱりだが、連絡を取りたい。しかし、そいつと連絡を取る手段がなくなってしまった。

 

そういやそういう人は何人かいるなぁ。

喧嘩したまま終わった奴。仲よかったけど会ったら話すことなくて気まずくなってその後がない奴。仕方がないんだけども、なんとも煮えきらない。だからといって、きれいさっぱり忘れるのは申し訳ない。こうやって思い出しては苦い顔をするのも学びなのだろうか。

 

 

戦闘力95日目

714(+6)

勉強+6

 

お互い興味がないわけじゃないけど、重い腰を上げるほどじゃないんだろうな。元気にしてればそれでいいか。

野菜摂取誘因要素はいずこへ旅立ったのか?

東京に来て1週間が経つが、新生活特有のウキウキ感がある。料理に気合が入るのもそのためでしょ

 

とは言っても、作れる料理はペペロンチーノと親子丼と豚キムチだけ。The 男な料理って感じだな

 

このところずっとペペロンチーノの研究をしている

毎日一食はペペロンチーノを食べてるが、全く飽きることがない。ペペロンチーノうまいもんな

 

ただ、ずっと身体に悪いものばかり食べてるからおれの身体はボロボロな気がする。普段から野菜取らないからどうしようかと思ってたんだけど、いいこと思いついたんだよ

 

味噌汁を作ろう、それも野菜をたくさんぶち込んだ

みそ汁は朝頭が回ってないときに食べるから騙し騙し野菜を摂取できるかもしれない

 

しかも、みそ汁はうまい!

血液の10分の1はみそ汁といっても過言ではないほどこれまで飲み慣れて、食べ慣れてきた

 

味噌汁を作ろう、そして野菜不足を克服する

 

朝が楽しみである

〈653.歴史ってなんだ〉

7月12日。

 

朝帰りである。別にとってもやばいというわけではなく、午前中起きれないので午後から動き出した結果だ。あまりよろしくはないことだけど、人がいない深夜というか早朝を自転車漕ぐのは気持ちがいいぞ。今日は特に涼しいというか寒い。

 

朝帰りとなると異世界を生きているようでなんだかわくわくするけども、それもきっと非日常の今だけだろう。バイト帰りのにいちゃんや散歩しているおばちゃんをみていると普段通り特で無感動な様子だ。

異様なものっていうのは、だれかの日常にあるものなんだね。

 

 

関西で一人暮らしをはじめたときは、それはそれは心躍ったものだ。かつての日本の中心だぞ。歴史があちこちにある!

しかし住んでみるとどうだ。ハナホジりながらふーんで済んでしまう。改めて言われてみると、200年くらい前にはちょんまげ和服で溢れた天皇のお膝元だったんだろう。

でもそれは日本中どこでもそうで、地元の群馬も当然ちょんまげがいたろう。まあ農民のが多いだろうけども。わざわざ京都じゃないと感じられないのが歴史!というわけじゃない。どこだって歴史がある。それがたまたま整備されているのが京都だったりなんだりするだけで。

で、その整備っていうのも結局政治的な背景があるわけであって。「作られた歴史」なんていうふうに観光学だったら言われることもあるやつだろう。

 

 

しかしまあ、そういうふうに「ここが将軍の生誕の地ですよー!」って言われないと意識しない。意識しないがずっと続くと認識しないに変わる。認識しないがずっと続くと知らないになる。そういう意味でも、外の人があれはすげえぞと価値を評価するのは大事ではあるんだろう。そうじゃないと、田んぼのあぜ道とかに弥生土器が使われてたりするらしいよ。

そういう意味でも、観光化するっていうのは悪なだけじゃないと思うんだけど。多少脚色されても仕方ないんじゃないかしら。

 

最近は、真正な歴史の価値が分からなくなってきたよ。

 

 

戦闘力94日目

708(+5)

勉強+5

 

仮にだよ、将軍〇〇は存在しませんでした!ってなったところでなんの問題があるんだろう。もちろん、歴史の研究だと大問題になるんだろうけど、嘘でもホントでも実生活じゃあなんも起きないのよ。正しいのを見つけられたら、それはそれでおもしろいんだけど。

別に歴史不要論を語るわけじゃない。歴史は学ぶ必要ある。でもその真正性ってどうやって保証するんだろうね。