ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1395.好きの優劣と沼〉

8月16日分。


「好きであることに優劣はない!」
ちょっと前に聞いたありがたい言葉である。
オタクや趣味が異性っぽい人への激励の言葉である。
確かに、社会的に優劣はない。これだけは間違いなく言える。そして、この言葉が対象とするのは趣味嗜好に社会性はないぞ、という話であろう。


しかし、「好き」であることの「度合い」についてはやっぱり優劣があると思うのだ。だからこそ、なんとなく飲み込めずにいる。



例えば私は東方Projectという美少女によるシューティングゲームが好きである。
好きになった当時、高校1年生。ニコニコ動画による二次創作が非常に盛んだった。
その当時の僕は、美少女ゲームという「オタクの象徴」を否定的に捉えるところもあり、「好き」である対象の社会的地位というものが非常に重要であるように思われた。だから、好きであることを友達にもあまり公開しなかったと思う。


そういう意味では「好きであることに優劣はない」というのはありがたい単語である。自分が好きであることを肯定してもらえるんだから。高校の時の私に届けたい言葉である。


そして、いまの私はどうなっているか。
東方Projectの最新作がどうなっているのかはわからない。3-4年前に追いかけるのをやめたからだ。しかし、いまでもコンテンツ自体は大好きだし、メディアで取り上げられたり粗品が好きだという話を聞くと非常にテンションがあがる。
この「好きだ」という気持ちを否定する考えはもうないし、恥ずかしいこともない。しかし、仮に友達が「俺東方好きなんだよね」と言っていると気が引けてしまう。
「好きである度合い」が明らかに自分が下位であると感じるのだ。



「好きこそものの上手なれ」という言葉がある。これは真理だと思う。
「好き」であれば、見たり聞いたりするのが快楽である。その世界観とかに没入することが何よりも楽しい。
そして単純に接触時間が長くなればなるほど、情報を仕入れたり、考えたりする。
すると「私が解釈した○○」という独自の世界観まで生成したりして、それが抑えきれなくなると「二次創作」が生まれる。


じゃあ、今の私が、これまでの私が、東方の世界にどっぷりで、独自の世界観まで落とし込めたかというとはなはだ疑問である。「鬼人正邪」というキャラについてはやたら勉強した気がするが、それもいまではもう抜けてしまっている。
だから「好きだ」と公言できるほど「好き」ではないのだろう、そう結論付ける。



じゃあ胸を張って好きだと公言できるのはなんだ。
「男子テニスプレイヤー」これは単純にここ15年くらいずっと情報を追いかけているから知っていること、考えていることには自信がある。
ドラゴンボール」これも高校の時にドはまりして無限に漫画を読み、ネットの情報を漁ったので自信がある。ただ、知らないことも多いし、最近のスーパーのほうはまったく知らない。でも自信を持って好きだといえる。
ポケモンルビー/サファイア/エメラルド」これもやはり無限に遊んだものだ。レベル100という苦労の集大成を5匹つくったりして、プレイ時間も相当なはずだ。しかし、これも個体値とか努力値とか知らないことも多いんだが。
ドラゴンクエストシリーズ」これもだ。公式ファンブックはいくつも持っているし、シリーズ総合のプレイ時間がおそらく1000時間くらい行くだろう。とはいえ、知っていること/知らないことは多い。


ここで矛盾が生じて自分でも驚いている。
「他人と比べても好き」ということには、知っている情報量や世界観構築まで落とし込むことなどの考察の過程が必須だったはずだろう?
それなのに、テニスだってポケモンだってドラクエだって、知らないこともある。でも「わからないことはわからない」という割り切りができて好きだといえる。


じゃあ逆に割り切れないのはなんだ?
「バボラ」テニスのメーカーである。確かに好きだけど、情報量が著しく少ない。なので自信をもって好きとは言えない。
「ゲーム」会社に勤めているから、好きではあろうけど、世の中のゲーム好きの情報量/プレイ体験の多さには到底追いつけない。だから知っていることが少ないので自信を持って言えない。
FGO」ゲーム作品である。これもどこまでも深い世界観の浅瀬しか知らないから重課金者、7年プレイ継続者に比べると知っていることが少ない。



ここまで考えてみると、「知らない」ということが「好きだと公言できない」ことに関わってくる。
では「ポケモン」と「FGO」の「知らないこと」の差というのはなんだろう?


ひとつには要約できるかどうかだろう。
単純に物語を通して知っており、展開をきちんと言語化できることにある。
これと関わる点で「世界観構築」という言葉を言い換え、「作品哲学への理解」というところにあるだろう。つまりどんなところが「好き」なのか。これときちんと向き合ってきたかどうか。きちんと考える時間を作ったかどうかである。


「Aが好き!」
「どこが?」
「それのどこがいいの?」
これに答える用意ができているかどうかである。
堅苦しく言えば、「好きである根拠を明確にできていること」なんだろう。
テニスプレイヤーの、ドラゴンボールの、ポケモンの、ドラクエの、好きなポイントはある。
バボラの、ゲームの、FGOの、好きなポイントはぼんやりしている。


好きなはずだけど、たぶんまだ向き合う時間が、どっぷり沼に浸かる時間が短すぎるのだろう。



好きであるならば、勝手に沼に浸かってしまうものだ。
それができていない以上、好きだと公言するのは憚られる。
好きなことを好きと胸を張りたいのなら、きちんと向き合う時間を作ることだ。
「好きなら知るべきことだろう」という後回しにしていることがある。その引け目というか、気後れというか、そういうのがあるうちは「好き」ではないのだろう。


好きならば、沼に喜んで飛び込むべし。それで人生を振り回せるなら最高じゃないか。
だって好きなんだもの。

〈1394.読書感想文〉

8月13日。


ほぼ連日投稿といってもネタがないことには変わりない。
せっかくなので、夏休みだし読書感想文にしよう。



「啓蒙書を読んで」


啓蒙書というのは大抵うさんくさい。こうすれば幸せになれる、こうすれば仕事がうまくいく、などなど。
ともすれば怪しい宗教の経典と大差ない。
出版年が今年の啓蒙書は読む気にはなれない、肩書きがうさんくさい人のものは読む気になれない、などなど、読まない理由はいくらでも挙げられるが、逆にちょっと気になっていた本がある。
「人を動かす」というカーネギー氏の本である。
1936年に初版が出版されたらしい。それがいまでも読まれているというのはなかなか不思議である。
そこで今回、職場の上長におすすめされたので読んでいる。


結論から申すと、すべての啓蒙書の原典である。10冊くらい他の啓蒙書も読んだことあるが、言っていることはカーネギー氏の主張と同じである。「人に優しくあれ」。そこについて非常に例示を多く詰め込んだのが本書である。


1920年代から50年代まで活動された方で、作家や教師、対人スキルのコース開発者らしい。
本文中に出てくる様々な例示は友人・知人の例示が多く、またリンカーンルーズヴェルトなど歴代アメリカ大統領の行動についても言及するなど、博学であったことがうかがえる。
そんな例示もすべてカーネギー氏の主張の補強に使われるわけだが、その主張はいたって凡庸で「情けは人のためならず」である。情けをかけることは、めぐりめぐって自分のためになる、という話である。


セールスマンで自分の持っている商品を売りたいときは、商品の良さを訴えるより相手の悩みを聞くことにあるという例示がある。結局お客さんは、自分に最大の関心があり、相手がどうしたいのかについてはまったく関心がない。
だからこそ、悩みを聞き、お客さんを丁重に扱うことでお客さんは自尊心が保たれる。これがコミュニケーションを始める糸口になるわけだ。
そして、相手が興味を持つように話題を選択するなど、様々なテクニックが紹介されるが、すべては「相手ベース」であることに他ならない。
究極的に相手に寄り添うことが、相手を動かす唯一の方法である。


僕が大きな影響を受けた本としては、水野氏の「夢をかなえるゾウ」があるが、これも「人を動かす」同様、まわりを大事にすることが自分を大事にしてもらうことだという話を物語調でまとめたものである。
「人を動かす」は面白いことには面白いのだが、アメリカの20世紀の話題であるので理解できない例が多くて退屈に感じるところがある。
そう考えると、21世紀の日本人が書いた啓蒙書でも大差ないように思う。
なぜなら、結局「成功したい」と思うならば、「良い人になる」のが最大の近道であり、「良い人になる」ためには「他人に優しくある」ことが社会生活をするうえでは必須条件だからだ。その文言や例示に差こそあれど、どの「売れる」啓蒙書でもそこを触れてはいる。


気になるのは、そういうのとは違う角度の啓蒙書があることである。
例えば「嫌われる勇気」で扱われるアドラー心理学では、自分の幸せのためには他人と自分とを切り分けて考えることが根本にある。無理に自分の想像通りに進ませようと躍起にならないことが幸せになることだという教えである。
極端に言えば、カーネギー式が「相手のために」であれば、アドラー式は「自分のために」である。
どっちも正しい側面があって、人によって適する適さないというそれだけだと思う。
しかし、この相反する主張がどちらもメジャーになるのは非常に興味深く思う。
今後は啓蒙書を読むときに、自身がどうなりたいか、という視点ではなく、なぜこの本が人気なのか、そこにはどんな人の欲望があるのか、ここの視点から考えてみたいと思う。



読書感想文は以上。


先日、Twitterアドラー心理学は鬱には適さないという話があって不思議に思った。
どうやらアドラー心理学を自己責任論と捉えることでさらに悪化するらしい。
しかし、僕は「そういう世の中だから仕方ないね、自分のせいじゃないね、自分のできることをやればいいね」というようなマイペースな教えだと感じた。


しかし、こういう感じ方ができるのは、僕が健康な状態であり、鬱のような特定の状態ではないからこそだろうと思う。
今回のカーネギー氏の主張も、健康状態だからこそ、そうですかと軽く受け取れたわけだが、これがメンタルをやられているときに読むと違うように解釈ができるのだろう。


ということで、結局啓蒙書というのは、読み手のメンタル状況次第でどうとでも受け取られてしまうのだろう。
ありがたい教えというのも、教徒がいなければ経典にはならないし、全員が全員教徒になるわけでもない。
売れているから正しいというわけでもなく、自分がどうしたいのかについての壁打ち相手的な本を見つけられればそれでいいね。


結論:啓蒙書100冊読むより、親友一人作るほうがよっぽど価値があるよ。

 

 

次は8月16日予定です。

〈1393.再開します〉

8月12日。


週一投稿に変更しておよそ一カ月が経つわけだが、あまり良いことではないように思えている。
ということで、2日に一度の隔日投稿、あるいは毎日投稿に戻そうと思うしだいです。
週一にして得るところより失うところが多い気がするのです。



そもそも、1400ちかく連日投稿(という体)ができたのは、少数ながら毎日来てくれる人がいる、というモチベーションに他ならない。
そしてルーティンワーク的に話をネタを探すというのも結構いい勉強になっていたことを、やめてから感じ始めた。


特に仕事を始めてからというものの、学生時代の時のように時間が溢れるほどあるような、のんびり考える時間を確保できない。
これは考える力が衰えるのも早くなるような気がするのよ。
そして週一投稿に変更してからは、当然来てくれる方も激減である。


このままでは週一投稿はおろか、途絶えるのも秒読みだと感じた次第である。
ということでほぼ毎日投稿という体での投稿を再開しようと思う。



再開に至って、ちょっと刺さっていた言葉がある。
かつて、だいちに俺はいつまで毎日投稿するのだろうかとぼやいた時に「死ぬまでだ」と即答されたことにある。
もちろん、それはボケだったり、特に思考もないような発想かもしれない。
なのに、この言葉が週一投稿の判断をするときも、判断後の寝る前や風呂場でよみがえってくる。


純粋にうれしかった。読む読まないは問わずとも、毎日投稿していることを認識しているという事実がうれしかった。そしてそれがこれからもだと疑いもなく言ってくれたことがうれしかった。


そして僕の特技が忍耐力にあることだ。
この積み重ねた投稿になにか意味を見出したいのかもしれないけれど、それ以上にルーティンワークを失うことはメンタル的に欠陥が生じるような気がしている。
自分のとりえを自ら消滅させるような、そんな選択だったという恐怖を感じているのだ。
つまり、どんな形であれ、毎日投稿することに、僕にとっては意味があることなのだ。



一種の呪いである。
なにか毎日文字にしないと僕は僕でなくなるように感じる。
これからはネタがあればテーマについて考察を深めるなり、好きな話を永遠に文字にしてみるなり、見た話の感想を書くなり、創作小話を書くなり、もっとなんでもありにしてみよう。


なにもしないより、なにかしてるほうが生きてる価値があるような気がしてくるじゃないか。

〈1392.夏休みを振り返る〉

8月7日。

 

投稿しようとはしてたんですが、酒飲みすぎて記憶吹っ飛ばしたので、夏休みに入った8/10に遅れました。ゴメンなさい。

 


去年の夏までを考えると、この時期は夏休みだった。
小中学生はもちろん、高校も大学も夏季長期休暇である。
とはいえ大学・大学院なんて年中夏休みみたいなもので、ずっとぐだぐだやっていたように思う。


それが会社員になって初めて迎えるお盆休みは1週間。
1週間あるだけでもありがたいのかもしれない。しかしこれまでと比べると、実に1/5だったり1/8だったりする。
これまでの夏休みを有効活用したことはあったかしら。
そう考えると、1週間でも十分な気がしてくる。



小学生のころの夏休みは、宿題をすっぽかして親戚の家でテレビ見たり、農作業を眺めたり、プールにいったりとそりゃあまあ遊んでいた。
両親共働き家庭なので、どこか遠出する、という記憶もあまりない。一泊二日で海とか軽井沢とかは行ったかしら。
特別強烈な思い出があるのは、中学以降であろう。


部活で試合やら練習試合やらでぶっ倒れそうなカンカン照りの中、テニスコートに立ったものだ。
テニス部というのは、他の部と比べて不思議な在り方をしている。
いわゆる中学生大会・高校生大会のほかに、「ジュニアの大会」がある。むしろそっちがメインで動いたりもする。
というのも、「ジュニアの大会」もインターハイのような全国大会があり、有利に勝ちあがるためには「ポイント」を稼ぐ必要がある。
そして「ジュニアの大会」というのは、規模の大小・主催の違いがあれど、毎週末どこかで大会がある。
夏休みは、中高生の大会とジュニアの大会とで、関東中を転戦するのが毎年のことである。


毎週勝った負けたの本番の試合をこなすんだもの、そりゃあ良いメンタルトレーニングにもなるわな。
このころの成長というのは、単純にテニスの技術はもちろん、メンタルの成長があったと思う。



問題なのは大学に入ってからだ。
夏休みの長期休暇を無駄にし続けた気がする。
サークルで遊んだ後はバイトに行き、家ではだらだらと際限なくパソコンに向かう。
英語の勉強をしようとか、将来のために本を読もうとか、目標だけ掲げて終わった日々である。そして終わり際に自己肯定感が削られて死にたくなって迎える後期のガイダンスである。


よくあるけれど、時間的余裕・精神的余裕があると、凡人はなにもしなくなるのだ。
中高生の時のように、毎週末試合が待っている逼迫した状況だと成長せざるをえない。
高校の模試もそうだろう。夏か秋かに連続で3つくらい受けた時がある。あの時は死ぬほど単語帳やら問題集に向かったと思う。


つまり、一週間でどれだけ成長ができたかを問われる今の状況のほうが、凡人には適しているように思う。



さて、じゃあ会社員になってなにを成長しようというのか。
簡単な話、昇進するためのスキルをつけることであろう。
それがなにかと問われると、学生と違って「人間力」とでも言えるのが会社員の難しいところである。


もちろん仕事によってはスキルが直接反映されるものがあるだろう。
プログラミング技術、資格などなど。
そこはやればやるだけ良いだろう。というか時間がものをいうところがデカいだろうし。


ただ、技術力だけで昇進できるわけじゃ無さげだろう?
コミュ力やらゴマすり力やら、そういう「総合的な力」とでもいうような曖昧な奴を伸ばさなきゃならない。


これの答えはもう一つか二つしかないように思う。
読書と考察である。
本を読む(小説・専門書問わず)というのは、発想力を育てることもできるし、多角的な視野をつくることも可能である。
それを読んだ後に、自分流にまとめあげたり、発展させることが考察である。これができて初めて自分の力になる。
要約すれば、インプットとアウトプットに他ならない。



大学時代にやっておけば良かったことといえば、どんなものであれ、好きなものを見つけることであろう。
既に好きなものがある場合でも、未知の中に自分の得意があるかもしれないわけで。
それを見つけるためにも、書店員がお勧めする本やTVで紹介されている本、Twitterで話題の本を乱読することに尽きる。


そして、一週間という長いような短いような在り難いお盆休みを乱読に使うことで、失った大学時代の夏休みを取り返そうというのが今年の目標である。
目標は4冊である。色々と遊ぶ予定を入れてしまっているわけだが、不可能ではないだろうし、それくらいはやりたいものだ。


本にふける夏休みも悪くはないだろう?

〈1391.命の輝き君〉

7月31日。


僕がコロナで寝込んでいる間に、同郷の親友が結婚報告のLINEをくれた。
こちらのカップルであっちに遊びに行った時、あっちもカップルで出迎えてくれた。それくらいには親しい間柄である。
結婚式は年末を予定しているとか。めでたいもんだ。


大学院の同期は今4年目だったが、途中退学でフランスの大学で修士に入りなおすらしい。
他の同期はイギリスにいくやつもいる。


不思議な時期ではあるが、親しい人たちが門出を迎えているらしい。
だいちも転職することになっているし、25歳というのはひとつ大きな変化の時期なのかもしれない。
なにか焦りというか現状への疑問というか、そういう気分になったりもする。
せっかくだ。俺も仕事じゃなくて、俺のためにきちんと腰を据えてみよう。



大学に入学した時の気分を思い出す。
自分の希望のもと選択したキャンパスで、ガイダンスを聞き、受講できる授業一覧を見ている時。
自分のこれからは、まさに自分の手のひらにある。これから決定する授業で自分の未来が決まってくる。そしてその先で世界の未来の一部が決まっている。
受講した結果、自分の未来が決まったかは謎だが、あの時の僕の魂の輝きぶりは果てしないものがあった。
なんでもできるさと言わんばかりの勢いもあった。


海外に出ていく同期もきっとそんな輝きを帯びているだろう。
結婚した親友も家には「嫁」がいるのだ。人生がきっと美しい色をしていることだろう。
転職するあいつも、頭のどこかで期待に溢れていることだろう。


ああ、なんとうらやましいことか!
仕事に慣れてきたことで、僕の魂はそんな輝きを放たなくなってきている!これは楽しいわけがない!
もっと輝けるだろう!もっと美しくなれるはずだろう!
自分の人生が自分の中に確実にあって、もっと高みを目指している、そんな瞬間にこそ輝く「なにか」を失うのはあまりにも早い。



啓蒙書を読むと、なんとも根拠が薄弱で独りよがりな論説だろうと呆れかえることもあるけれど、その本の中にある光り輝くなにかには、妬みを感じることもある。
本を書いてしまうくらいに、著者にとって心揺れる衝動があったという、その事実が妬ましい。


だいちに転職について本を書けと言えば、たぶんなにかしら書けるだろう。旧友に結婚の意義を問えば一日中語ってくれるだろう。フランスで、イギリスで学ぶ理由を聞けば、1万字のインタビュー記事が出来上がるだろう。
心揺れる衝動というのは、ある種のリスクを背負った時にこそ得られるものだ。
おれは就職することで安定を手に入れてしまった。衝動を得るほどのリスクを背負えていないのだ!



簡単にリスクといったが、じゃあリスクってなんだ。
結婚のリスクは?自分の自由が制限されることかもしれない。生きることの責任が一人のものでなくなることかもしれない。
転職のリスクは?新しい職場とのマッチ度が未知数なことだろう。ブラックを引いてしまうかもしれないな。人間関係が難しくなるかもしれない。
留学のリスクは?慣れない環境というのはそれだけでも未知数だ。言葉の壁、治安の壁、お金、日本での安定をかなぐり捨てての挑戦である。


しかし、それは結局第三者だからこそ目についてしまう不安でしかない。
当の本人からしたら、そんなリスクを取ることより、そこで挑戦しないという選択肢がない。そもそもリスクだと思わないことだ。
リスクがあると言ってためらっているうちは、多分違うのだろう。


「いのちのかがやき」というのは、そういうリスク換算をしなくなった瞬間に得られるものであろうよ。



血が全身を「ミャクミャク」と駆け回るような、そんな瞬間を味わいたい。
血肉湧き踊るような感覚。
あれはやっぱりギャンブル的な「賭け」の瞬間にあるものだろう。
手に入れたいのってなんだろうね。

〈1390.たぶん陽性〉

7月24日。


週一投稿にしようと決めて初回なわけだが、あたしはつくづく不思議な運命にある。
どうやら例の感染症にかかったらしい。コロナである。
しかし、7/31の現在までPCR検査を受けられていない。
徒歩圏内の病院は発熱外来の予約ができず、薬局でもメーカー欠品とかで検査キットがない。
ということで、永遠に家の中でゴロゴロしていた。
今回はその闘病記的なものである。



感染経路は、確実に同居人である。
同居人も一週間くらい倦怠感と喉・鼻に問題があった。とはいえ、設置したばかりの冷房の影響もあって夏風邪だろうと呑気に構えていた。
状況が変わったのが7/23である。同居人が味覚をなくしたのだ。
しかし、体調が悪くなったのが19日とかそこらで、本人ではないので実のところはわからないが、ただの夏風邪程度であった。
それが、味覚がなくなったのだもの、普通じゃないね。しかしそのころには僕ももう喉の痛みが始まっている。手遅れである。


はじまりは喉のみだった。しかし、痛いというか、イガイガしているだけで、カラオケでバカ騒ぎした翌日くらいなもんだ。
そのあとに、急激な倦怠感とともに発熱が始まった。


倦怠感は非常にでかい。起き上がるのが怠いのはどんな病気でもそうだが、脳みそが重いというか、まったく思考するカロリーを嫌悪するような、無気力状態である。
結局最高体温は39.1℃程度だった。
ワクチンのおかげで軽度で終わったみたいだ。



しかし、完全復帰に至るまでの長さは他の病気になかなかない。
仕事に戻ったのが27日だったが、頭痛と鼻づまり、のどのイガイガは残ったままである。
仕事が終わる19時ごろには体力の限界が来る。夕飯を食って風呂入ってすぐに寝るような日が3日続き、そしてようやく通常通りの生活に戻った。

そのあたりで一日二日、味覚がなかったり嗅覚がなかったりした。
そしてまるまる一週間、倦怠感と頭の重さがまとわりついていた。


世の中の患者の中だと超軽度な症状で済んだのだろう。それにしてもしんどいことには変わりないもの。よくもまあこんな病気が広がってしまったもんだ。


しかもこの一週間で変異種の話題もよく聞くようになり、サル痘とかいう新しい感染症が国際問題に持ち上がってるらしいじゃないか。
まったく嫌なもんだ。



しかしまあ、コロナになってようやく気づくところだと、感染経路の特定には限界がある。
幸いなことに僕には同居人がいるので、コロナ真っ盛りの時には外にでなくてもご飯にありつけたし、症状が落ち着いてからも外出はほとんどしていない。
これが一人暮らしであればそうはいかなかった。ご飯の調達のためにコンビニやスーパーにはいかなくてはならない。
そこで手に取ったカゴも、店側は消毒をしてくれているだろうけど、バイトさんが何百個も拭くことには限界があるだろう。
しかも一度手に取った商品を棚に戻すこともそりゃあある。セルフレジであれば、画面タッチもするし、荷台を触ることもある。
往復の道でも、そりゃあマスクはしているけれど、咳をしたりすると漏れることもあるんじゃないかとか。


これ以外でも、症状がなくて潜伏期なら電車にも乗るだろうし、タクシーを使うこともあるだろう。触れる物すべてに可能性がある以上、絶対安全なんてことはありえない。



大昔から感染症は集団居住生活をするうえでの最大の脅威だった。
数千年とか、場合によっては数万年とか、集団になってから途方もない時間を過ごしているけれど、病気はどこまでも脅威である。
それでも、ワクチンとか、薬とか、対抗策の発展のおかげであたしは比較的楽に済んだわけだ。
技術発展万歳である。


科学の発展を良くないと考える人がいることもわかるが、文化という人類にとって唯一の武器を否定するわけにはいかないと思うぞ。
技術発展そのものを否定するのではなくて、今後の発展のさせ方を考えるべきなんだろうな。
熱にうなされながらも、比較的元気に過ごすことができたコロナ期間にそんなことを考えておりました。