〈90.過去と歴史と「楽」について〉
今日はずーっとぐだぐだしました。明日から年末年始も関係なくバイトに入るので、あえてぐだぐだしたんですけどね。
いざぐだぐだしているときはそりゃあ楽しくてしょうがない。気が向くだけ寝て気が向くだけゴロゴロしてりゃあいいんだから。
なんだけど、昔っから夜になると"これでいいのか症候群"が発症するんです。ぐだぐだするって決めたのに。今日も生放送のゲーム配信を見ながらちびちびご飯を食べてる時に発症しました。
この病気が発症した時、なぜか知らないけど僕はとりあえず走ることになってます。今日は深夜に川沿いをダッシュしてきました。
久しぶりに走ってみると、やはり部活の走り込みを思い出すわけです。当時は嫌でしょうがなかった走り込み。しょっちゅう腹を下して走るのをサボることになっていたなあ。それと違っていまは自発的。
そこでちょっと考えてみよう。当時、自分から自発的に筋トレをしたことがなかったし、もっと言えば部活とか自主練も行きたくなかった。きついから。
もし今の僕が当時の僕にカウンセリングができるなら、おそらくテニスをやめて、絵を描いていたり、写真家を目指したり、文章家を目指すことになっていたのかもしれません。
すると、4年経った今、どれほどの有名人になっていたことでしょう。
たぶんなってないんだろうな。
だって当時の僕はやりたいと思ってなかったから。今の僕がその時からやらせたら良かったな、って思ってるだけで。やらない、ってことはそれほど情熱がないってことだ。
つまり今回の人生では、ゲーム漬けにならず基礎体力をあげることができたので嫌だったかもしれないけどテニスをして正解だった、最善のルートを辿ってきた、と言えるのかな。
いえ、そう納得するのです。仮にテニスをやめてゲーム漬けになった方が良かった、または何かのクリエイターを目指したほうが良かった、と結論づけることもできるけど、やってしまった過去はどうにも直せないので。続けられたってことは、実はどこかに情熱があったんだろうね。
好きな言葉がありまして。
"過去は変えられない、しかし歴史は変えられる"
過去、というのは単純な事実です。それが歴史になると解釈、文脈が出てくるわけです。"これがこうだったからこういう結果になった"、というのが歴史になると含まれる。
例えば、今日ぐだぐだした、という事実は未来永劫変わりません。でも、「ぐだぐだしたことで体重が増えた」とも「ぐだぐだしたことで人生論を考えるに至った」とも言えるわけです。歴史になると観点が決定されてそこから事実を解釈することになるので。
つまり、嫌な過去についても解釈次第で歴史はどうにでもなるのです。僕はテニス生活を忍耐と継続と勝負勘を鍛えた大事な修行だと解釈することにしました。2年くらい前だったかな。この時期のおかげで、"これでいいのか症候群"を患うことができたのかもね。
だから、嫌なこともいつかは役に立つんだな、後悔してもしょうがないんだなっていう話。
だからといってブラック企業で働くなんてナンセンスなことはしなくていいと思うよ。楽しいのが一番さ。でも、"楽"をしているときは坂を滑っているときなんだよ。"楽"と"楽しい"は違うのさ。
自発的な修行なら最高かもね。いますぐできなくても、思い続ければいつかタイミングは来るさね。気長にいきましょう。
今日の走り込みはなかなかしんどかったぞ。明日からも継続できたら本物の筋肉がつくんだろうな。せっかくだから、ホウチガで報告させてもらってサボれない環境に自分を置こうかしら。
今日も長いね。せっかくだから分割すればよかったのにね。ごめんね。