学部時代の学びといってもはっきりこれ、と言えるものはない。卒論は少し頑張ったし先生から色々教えてもらったけども、まあ学部の論文なんてそんなレベルだ。
じゃあ無駄だったのかというと決してそうでもない。4年間の中で一つ今でも問われ続けている言葉を教えてくれた先生がいた。
"みなさんには公共としての意識が足りないと思います。プライドというかカッコつけようという意識。"
その先生はイギリスで学位を取得していらっしゃった。その時にイギリスの学生や留学生たちと関わりがあったらしいが、その時のまわりのプライドがすごかったらしい。
その時の経験をもとに、日本人学生が大講義室での講義中に携帯をいじったり、お喋るする態度にご立腹というか、むしろ悲しそうにしていた。〇〇学生として、見られる意識。大学生なんだから馬鹿にされたくない。そういう意識が足りていないらしい。
解釈すれば、誇りであり、プライドであり、アイデンティティである。ベジータはどこでもサイヤの王子としての態度を全うしていた。そういう態度なのだろうか。
もちろん、プライドというのは邪魔になりうる。偏見とか横暴にも繋がりかねないからややこしいものでもある。しかし、全否定するのはちょっと待てよぉ。
実際、私が高校生の時、まわりは母校愛に溢れ誇り高い奴らが多かった。正直そいつらと勉強するのはしんどいし、めんどくさい奴もいた。だけども、表向きプライドを丸出しにしなくても、どこか支えになっていたのは事実だし、学ランを着ていれば〇〇高校のやつだと言われるから馬鹿にされないよう毅然とした態度でいようとは思ったし、迷惑をかけまいとも思った。そういう奴も多かったんじゃないかな。
プライドっていうのはいつでも丸出しにするもんじゃあないんだとは思う。だけど無いのはそれはそれでもったいない気がする。所属愛でもいいし、家系でもいいし、友好関係でもいい気がする。
〇〇先生の生徒として俺はアホにはならない。
親父の息子として強くなくてはならない。
〇〇の親友としてアホ面はできない。
そういうプライドがあってもいいんだと思う。
そういうのに根拠はいらない。本人がそう思い込めばそれでいい。まわりが認めようが関係ない。
結局そういうのが軸になるし、強くなれるんじゃないかしら。
俺のプライドはなんだろう。十文字という苗字だろうか。群馬県のプライドだろうか。母校愛だろうか。祖父だろうか。友人だろうか。
なんでもいい。かっこよくあるよう努力してみようか。