ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈319.理想論・限界〉

宿題の返事をしてやろうぞ。

全力で投げてきたボールならば、私もその気になって返さなくては無礼だ。

全力返球。

 

なんだけども、今日の話は読まないほうがいい。僕の、未来のためのメモ書きになってしまった。エゴと自分語りの醜態をさらす羽目になる。

というのも、生きる理由について考えてみようと思うから。

別に鬱じゃないのよ。哲学モードなだけだわよ。

 

 

1

 

 

学問の全ての親は哲学。そういう言葉があったような気がする。

人間とは何かを考えれば文系、どうすれば幸せになるか考えれば理系、生きることを表現すればアート、人間の成長の限界を極めればスポーツ。

やや強引ではあるけれど、すべて哲学で考えられるそうな。

 

僕はこの考えに非常に影響されておりまして、大学に入ったらテニスはしない、そう決めた理由も、学問を究めたく思って、多分野の授業に潜ろうとしたわけであります。

学問を究めれば、生きる理由がわかると思って、学問に専念してみたかった。
大学院への進学の理由もそう。極めれば、僕が何のために生きているのか分かるような気がしまして。

 

僕は、”僕自身”で僕の生を肯定する理由を持ち合わせておりません。

別に鬱というわけでもなく、昔っからいつでもそう思ってる。

だから、新しい真の生きる理由を求めて学問の道に足を突っ込んでみた。

けども、どうもアカン。

このアカンとは。これはつまり、学生身分として生きることを追求できるのに、いま、私は幸せではない。アカン。

 

 

2

 

 

それなのに、なんで死ぬという選択肢を行使しないのか、考えてみようよ。

もちろんね、痛いのはやなの。こわいもん。

 

それに加えて、今死ぬと人を不幸にしてしまう身分にある。

私が死ぬことで、家族は間違いなく悲しむ。おそらくだが、私を大事にしてくれている人も、泣くかはわからないけど「なんで死んだんやろな」そう考えてくれる時間を与えてしまうと思う。Tが死んだときに私が思ったように。

そうなんだね。私が今生きる理由は、完全に他人依存。

もし、完全に独り身、悲しむ人がいなければ(果たしてそういう状態になることが人間出来るのかはおいといて)、僕が生きる理由、いや死なない理由がわからない。

 

「人を幸せにして生きなさい」そう教えられて、それを最善美としてきたからね。私の名前の由来もそうよ。偉く気に入ってるけどね!ありがと父ちゃん母ちゃん!

 

僕自身で僕の価値は定められない。他人が幸せかどうか。これが大事な指標になっている。他者依存の命であります。「これでいいのか症候群」もきっとこれが理由なんだ。

 

そういう意味で、僕は今現在は幸せじゃあない。今の学生という身分では、だれも幸せにはできない。学問を究めるということにも踏み切れないのはそうだ。学者として人を幸せにはできるだろうけど、本質的な仕事としてではない。

(これは僕だけの考えだから、どうぞ許してほしい。)

 

 

3

 

 

話を戻す。僕は生きる理由が欲しい。人を幸せにしたい。

ならば、手に職をつけたいと思うようになった。職を持てば、生きる理由がある。

私が休めば、会社の発展が一日遅れる、いやそんなたいそうなことはできないだろう。

私が休めば隣のデスクの鈴木さんに仕事が向く。鈴木さんのために休むわけにはいかない。いや、そんな正義心もないか。

収入があれば、モノを買える。そうすれば家族は幸せにできるね。それで十分だ。身近な人を幸せにしたいねえ。

 

職を持てば100%幸せかは分からない。でも誰かのためになることができる。いまより幸せな生活になれる。そんな気がするから手に職を持って、自分が生きる理由を持ちたい。

 

 

4

 

 

 

改めて言うけれど、これは僕が鬱病だから言ってるんじゃない。

ずっと延髄とかそっちの裏っ側の方で漂っていた奴を引っ張り出してきただけなんだ。

 

誰かを幸せにすることで、僕は生きる理由を得る。

だけども特定の個人に生きる理由を捧げないようにしないとアカンなあと思う。

人に僕の命を預けるのは、その人の荷を重くさせる。命っていうのは重いもんだから、僕の重さで身動き取れなくさせるのは申し訳なさすぎる。

そこでたぶん僕が行きついた話として、僕が生きる理由、命を多人数に分散させるっていう方法だ。

 

深層心理では、このホウチガでさえそうかもしれない。

将来の夢、なにかしらのクリエイターになりたいのは、不特定多数に僕の血が通った作品を見て、幸せになって、次を楽しみにされる。このことで僕が生きる理由は分散され、保障される。

よく言えば、他人を幸せにすることで生きたいってことなんだけども。

だからと言って、なんでもいいわけではないんだけども。

 

そんでもって、身近な人を幸せにできないやつは人間失格だとも思うんだけど。

自律した方がきっと楽なんだろうけども。

わからんのよ。

 

これ以上自分を疑っていたらそれこそ鬱病になっちまうよ!

やめだ!やめだ!

 

 

5

 

 

いいあんべえの反論にはこうだったね。

iambe.hatenablog.com

・身近な小さい目標の実現こそが精神安定剤なのだ。

・軸や強い意思も、大きな目標と同じで変わりやすいだろう。

 

これに対する一般的な見解から議論を深めるのは僕の能力では不可能だ。

そのため、「僕の経験」でしか語れない。ごめんよ。

①小さな目標だけでは、たぶん僕は痩せることになる。その先の、「人の幸せの実現」という誇大妄想が私の血を巡らせる理由になる。小さな目標というのは、非常に「自分のため」であり、僕はつらくなってしまう。

もちろん、自分が成長したという自覚で「より人を笑顔にさせられるようになった!」と考えられるけど、これにはやっぱり、その先の誇大妄想ありきなんだ。

②僕の軸っていうのは「僕が生きる理由の追求」なのねん。これはたぶん、よっぽどのことが起きない限り変わらないし、変えられない。

軸っていうのは、あんまり多用したくないけど、「その星に生まれた」とか「運命」とかいう、ふわっふわした言葉でしか説明できない。

いや、俺にそんなはっきりした軸、というか杭みたいなものないか。

 

つまるところ、「僕にとっては」、誇大妄想だとしても壮大な目標・夢・理想がなければ死んでしまう。生きる理由の肯定のために必要なんだ。

でもこれは一般解答、模範解答からは程遠い。

今の力量じゃ不可能だ。精進します。

 

あとね、揚げ足取りっていうことば。あたしは好きじゃないわ。

もっと、皮肉を言う時とか。相手を嫌っている時とか。そういう時に使うわね。

あたしはIambeとの議論を楽しんでいるのに、そんな消極的になられちゃうと困るわ。

これは一種のゲームよ。テニスの試合に斧を持ち込んでいるわけじゃないんだから。

エキシビジョンマッチだわさ。

 

 

もっかい言っとくわよ。あたしは鬱じゃないの!

こういうモードがあるの!

わからない、これから鬱になる前兆なのか、それまではわからないけども、少なくとも今は楽しんでいるわ!