"寝落ちしてしまった。なので翌日2回投稿ということでチャラにする。"
「なにゆえもがきいきるのか」についての考えておきたい追加の事柄について書いていたはずのところ寝てしまった。
その内容はこの書き出しについても言えることかもしれない。
「承認欲求」についてである。
。
承認欲求の正しい定義っちゅうのが見つからなかった。たぶん専門書とか論文で書かれているだろう。めんどくさいのでいくつかのネット記事をもとに、こういうふうに認識されているぞ承認欲求ってことではじめちゃう。
承認欲求とは、
他人に認められたいという社会的欲求。
〇〇という人間だと認められたい欲求。
マズローの欲求5段解説の4段階目にある欲求。
こういうことにしておきましょう。
まあこういう定義で外れてないでしょう。
。
ではなぜ今日これを扱うのか。
僕は承認欲求を敵として認識していたからです。こいつがいる限り僕は幸せになれない。そう思っていた。
そこで、ある意味自己肯定感とも幸せとも関わりある話だということで扱ってみよう。そういうことです。
。
僕は、承認欲求は非常に稚拙で愚かな欲求だと認識していた。というのも、僕をこういうふうに認識して!っていうのは非常にわがままに思えたので。
態度について他人を支配しようというのは赤ちゃんとか幼児が「よしよしして欲しいので甘えてみる」に近しいと思った。つまり、承認欲求は非大人的な欲求だと考えていた。
だが、どうやら僕の行動は至る所で承認欲求が溢れているらしい。
知ったかぶりなんてその典型例だろう。
〇〇も知ってる俺はすげぇぜ!なのか、
〇〇を知らない人間ではないのよ、っていう逃げ腰なのかはなんとも言えない。
どちらにせよ、常に「良し人間的承認欲求」も、「非悪し人間的な承認欲求」も常に発動していた。
これが発覚したのは大学3年の時に経験したインターンシップだ。そこで無能と思われたくないが故に嘘をつきまくっていたが、既にバレていた。
。
ということでそこから承認欲求クソ食らえ!っていう考えはますます僕を飲み込むようになり、つい一昨日くらいまでもはや承認欲求から目を背けることにしていた。
だが、一緒に呑んだ友人がはっきりと言ったことを忘れられない。
十文字「承認欲求ってあるもんなのかしら。」
友人「そりゃあるでしょう。絶対あるって。」
こうもあっさり認めるのか!あの愚かな欲求を!
ということで、仕方なし僕にも承認欲求が今でもしっかり残っていることを認めることにした。
非を認めることでしか人間は成長できないのだ!
そういうこと。
そこで考えるのが、承認欲求はなくすべきものなのか、はたまたあっていいものなのか、あるのが当然なのでどうやって利用するのか。ここらへん。
僕の中の「理想の大人」は他人にどう思われようが関係がなく、ただ自分が存在しそれをどう認識するのは他者の自由である、という自己肯定感MAXおよび脱承認欲求の領域である。
こんな大人がいるのかは置いといて、目指したいエリアではある。
。
議論したいけど、僕の中に議論する材料がないので、また議論の前提として今回のことを置いておくことにする。
今晩は「なにゆえもがきいきるのか」の幸せ議論を進めよう。
。
なんで今日の書き出しが承認欲求と関係あるか。自分が弱い人間だと思われたくないから、寝落ちした、ということを伝えることで「仕方ないね」という許しを得ようとしているんじゃないか。そう考えられるから。僕は弱い人間です。