〈930.ペットと人間と愛と〉
4月15日。
我が家の犬を見ていると不思議な気持ちになる。散歩に行く準備をするだけで大はしゃぎして、おやつの袋の音がするだけでおさわりをして待ち、首回りを掻いてやると気持ち良さげな顔をして、帰宅すればわざわざ起き上がって迎えてくれる。
これを従順・愛玩動物と言えるんだろうけども、言ってしまえば猿に飼われる犬ということだ。上下関係を考えてたりするんだろうか。
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人間を猿と言い切ってしまうのはアレだけどもとりあえず自分のことなので猿ということにする。僕みたいな猿に、顎も脚も優れている犬がなぜ従順なのだろうか。
そこに愛があると僕は思い込んでいるけども、我が家の犬たちは愛を持っているのだろうか。エサやおやつ、散歩という娯楽を与える猿だからいう通りにしているだけなんじゃなかろうか。
かわいいからどうでもいいけども、我が家の犬よ、それでいいのか。
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もし我が家の犬が信頼関係を築いておらず、飢餓状態で、平原で一対一で対峙したとしよう。
僕らに勝つ術はあるのだろうか。人間は足と腕が4つ使えるけどもどれも最強の一撃はない。それに比べて犬が本気で噛んできたら骨も砕ける。
だから熊とか虎を飼っている家庭や動物園では時々事件が起きてしまうのかもしれない。餌が足りなければ、運動が足りなければ、ストレスだらけになれば鬱憤を晴らすためには攻撃をしてくるだろう。
本来は犬だってそうだろう?もっと散歩したいだろうし、おやつだって袋の場所を知ってるんだから無理矢理食べることだって不可能ではない。
なぜ攻撃せず、大人しく伏せをしたり上目遣いでこちらを見てくるのか。しっぽをふって帰りを待ってくれるのか。不思議な気持ちになってくる。
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それが愛ということなのか。
メリット・デメリットはあれど、それを成立させている信頼関係を重視すること。もちろん、人間同士なら信頼関係もメリットのためだということもあるかもしれない。だとしてもそれも含めて愛なんじゃなかろうか。
目の前の一億円と人。秤にかけるまでもなく人を選べばそれは愛だろう。いかにそれが計算高くてもその行動を選ぶのは愛の一種と線引きできないような気がする。
じゃあ、我が家の犬におやつの山と俺を選ばせたら俺を選ぶかと言われればそうではないだろう。100%おやつを食べる。
人間の愛との違いで言えば、言語による意思疎通の有無だろうな。
愛ってなんだ。