〈1057.駄文〉
8月19日。
毎日なにかをするというのは、けっこう大変なところもある。
ルーティンワークではなく、毎日だけど少しずつ違うことをするという、例えばこの文字を書こうというのもそうだし、おそらく絵を書くとか物を作るとかもそうだろう。
少しずつ変えていくのは楽かもしれないけど、ちゃんと楽しんでもらえるような物ができるかなというところが肝である。
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この文章は自己満足が大部分を占めているので困ることはないけども、お題がないというのは時々困るのだ。毎日のルーティンワークで終わった一日は、書くような面白いことがなければ自分で探さなければならない。
これが醍醐味なところではあるけども、それでもある程度人に見てもらえるものを書くのは難しいのだ。
この話題をしている時点で、今日がまさにその日であるということだ。
バイトでこんなことがありました!なんてこともなければ、外でカフェの作業中に隣の人がこんなことしてました!なんてこともない。
来週になれば忘れてしまうような一日でも、大事件が起きた日と同じ24時間というのは詐欺だよ。
今日は短くていいから、大事件の日にちょっと分けてあげることはできないかしら。
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それはつまり、時間に対して価値を与えることになる。
分けられるものは贈与ができるということで、関係性が生まれる。すると、もらう側・受け取る側でのコミュニケーションが生まれる。
まあ基本的自分同士なのでなんてこともないんだけども。
これが仮に人と人の間のやり取りになるとまったく変わってくる。
世にも奇妙な物語とかでそういう話があったような気がする。あとはTwitterとかでプチバズりするような漫画とか。
時間は唯一人間に平等に与えられたものだから、それを取引するようになったらいろんなバランスが崩壊してしまうよ。
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お題がない状態で書き始めても、とりあえず800文字くらい書けば一つのテーマには行き当たることになるのは1000以上書いているとわかってくるのです。
そしてきちんとした文章にしようとすれば、それまでの800文字を消して、たどり着いたお題で書けばいいわけです。
それをしないということはめんどくさくなったというわけであります。
今日はごめんなさいね。何もなかったの。