ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈373.子どもから大人〉

10月6日。

 

僕は3月末生まれだから、友達から祝われたことがない。小中高大ずっと春休みだし、大抵部活とかサークルも休み。親に祝われて終わりな22年なわけです。

 

こういう話をするのも、今日がお世話になってる宿のご主人の息子さんが誕生日会だったからです。6歳の小さい子。泊まってる人、インターン生、仲良い人、従業員。いろんな人からプレゼントをもらって10から20個はもらってた。羨ましい。まあ僕もタダメシにありつけたから文句はないけども。大事に育てられてる子なんだろうなと思う。

 

邪推をしたくなってしまう。

大人に囲まれて育った子は一体どうなるんだろう。選択ができなくなるのか、ちやほやされるのが当然だと思うのか。それとも逆に、大人な対応を早くに知ることになるのか、知識を広げて賢くなりやすいのか。

 

まだ半分以上お金払ってもらって生活を営んでいる身なので、子育てをする側よりもされる側に近い私だけども、20代中盤が近づくと流石に結婚とかその後の生活を考えなくてはならなくなる。

 

どういう子育てをすればいいのか。早すぎるけど今から気になるところではある。

 

小さい頃からの意思決定のプロセスのくせはそのまま中高生まで引き継がれるように思うし、さらにその先、大学とか大人になっても後を引いてくる気がする。

 

親の責任は重大だな。

改めて親のありがたみと責任の重さを知ることになった、不思議なセネガルでの1日でした。

〈372.前提取っ払い〉

10月5日。

 

圧倒的風邪。自分で何か動こうという気にはならなかったから、近くの広場でやっているサッカーを見に行った。

 

やったら広い何もない荒地。コートもないし、ゴールもない。そこらへんから取ってきたブロック二つを並べてゴールにしている。整備なんてするわけないからボコボコ。雨上がりだと緑色の水たまりもあって気持ち悪いくらい。

それなのにサッカーしている人たちの靴はめっちゃ綺麗。オレンジだったり緑だったり、日本のサッカー少年、サッカー青年と変わらぬ靴。たぶん、誕生日プレゼントとか賃金貯めて買ったんだろうな。

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いやあ。面白かった。プロみたいにうまいわけじゃないけど、パッションがすごくて面白かった。素人サッカーだけども本人たちは凄い意気込みでボールを追っかける。

 

思ったのは、本人たちは日本人が思うアフリカ像よりもちゃんとお金はある。ないのは、こういう広場を整備する法律とか政治とか地方自治とか。そういう制度側なんじゃないかと思う。それのあるなしだけで、街は綺麗にもなるし汚くもなるし。渋滞の激しさも酷くもなるし耐えられるくらいにもなる。

 

僕がアフリカ来る前は、全土全てが貧しくて助けを求めてるみたいなことを考えていたけど、実際そうでもないってことがわかって。

それでもなにか大変なんじゃないかと思っていたら、どうも個人ではなく集団になった時なんじゃないかと思う。

 

でもこれってアフリカだから、セネガルだからって話じゃなくて、日本でもそうなんだと思う。公園とか街の美しさを比べたら、そりゃあ日本は上位になるかもしれないけども、集団になったらなったで色々課題がある。

個人の理想は一つに絞りやすくても、集団の理想は一つになるのはほぼ不可能なんだな。

 

我々日本は先進国として〇〇すべきだ!っていうのが時代にマッチしてないのはなんとなく思っていた。だからといってなにが正しいかは今もわからないけども。

 

とりあえず謙虚に、比較とかもしつつだけども、一つの現象をじっくり分析してみるのが優先されるべきなんだろうな。

 

後進国だからどうだとか、先進国だからこうせよ、ではなくてね。前提を取っ払うことが大事なんだろうな。

 

風邪で脳みそ回らないからこんな程度でおやすみなさい。

言いたいことはそれだけ

 

じっと見守るってすごく難しいことだと思う

 

相手が可愛ければ可愛いほど構ってあげたくなる

なにか言ってあげることで相手の背中を押してあげることができるんじゃないか

 

そんなふうに接しているとあんまりうまくいかないんだよな

 

まだまだ狭い視野と経験の中では大したことすら言ってあげられないのに、まるで大賢人であるかのような助言とは名ばかりのエゴの押し付けをしている自分を省みる

 

百聞は一見にしかず、経験してタックルして鼻血だしてわかることって自分の資産になるよな

 

その機会を奪うってのはおれは大罪人だよなあ

 

自由放任主義って責任からの放棄なのかな

でも、おれは時には見守ってくれる人間の方が好きです。責任は意思決定する本人のものなんだから

 

話がぐるぐる回ってる気もするが、言いたいことはそれだけ

 

〈371."わかる"議論〉

10月4日。

 

セネガルは乾季になった。乾季という文字をみると、僕はどうしてもカラッカラに乾いていて、砂嵐が時々起きて。そういう絵に描いたような砂の街を思い浮かべてしまう。

思い浮かべてしまう、と言う通り現実は当然違う。ただ雨が降らなくなって、若干暑くて。それくらい。日本に比べて湿気がないのはもともとだったので、乾季といってもただ雨が降らなくなっただけだ。1ヶ月の僕にはそう感じるだけなのかもしれないけども。

 

なににおいても、前提知識は大事なんだけど、それがなんのフィルターを通して伝わっているか、これを考えるのが大事なんだろうなと思うわけです。

 

例えば。"車で一時間はかかる"と言われたらどれくらいを想像するだろう。40kmくらい?

ダカールに来てみてそんなことないなと思った。この1時間のうち、渋滞にかかる時間が30分。つまり実際は20kmとか15kmくらいの距離でも1時間かかる、と表現することもある。日本だったら30分かからないくらいだと思う。だって渋滞がない前提だから。

 

この前提というのは言及されないから上手いこと利用されることもある。

例を考えてみる。

"とある男の子は、砂嵐の起こる道中で車でも3日はかかる遠いところに妹が送られてしまった"

と言ったとしよう。

これをそのまま受け取れば、北海道から沖縄より遠いかもしれない、しかも砂嵐が起きるから歩いていくことなんかもちろん不可能だし、車でも砂嵐の中で動かなくなれば死んでしまうかもしれない。もしかするとこの兄弟は生きてるうちに会うことはできないのでは…と悲劇的に考えてしまう。

 

たしかに現実にこの可能性はありうる。

だけども前提によっては、実際は渋滞が激しいだけで、日本なら半日くらいで行ける距離、群馬から千葉くらいかもしれない。その間の道に信号がなくて、高速道路がなくて、渋滞が頻発するのが原因で3日かもしれない。

いや、もしくは、車がない前提まで落として、タクシーをつかまえるまでの時間とか、バス停でのんびりアイスを食べる時間も含めての3日かもしれない。

砂嵐が起こるのは実際には3年に一度程度かもしれない。そのたまたまのパーセンテージの中で車を動かさずに3日待つだけのことかもしれない。

 

ここまで考えてみると、最初のイメージ今生の別れとは異なり、その気になれば一応歩いて行けるかもしれない、そこまで頑張らなくてもバスを乗り継げば2日くらいでのんびりつくかもしれない。それくらい軽いものになる。

 

これはあくまで僕の脳内の例だけど、実際にアフリカを題材にしたテレビ番組ではこういう情報操作はちょくちょく起こりうる。なかなかアフリカを経験した人は他の地域に比べて少ないし、そもそもそのデータの信憑性を疑う人はいないから。そうやってつくられる悲劇はたしかにある。

 

だから、自分で経験するというのが一番手っ取り早い。自分に関係する情報であればちゃんと情報源を疑ってみて、信用に足る情報源で正確さを確認する。

情報の海の波を適切に見極め、その波に乗れる人。情報社会のサーファーじゃい!

 

 

そして大事なのは、こういう僕の情報ですら、僕の身の周りで起きたことだけを、しかもかい摘んで書き起こしているだけだということ。セネガルで生活をしている、とはいえ所詮まだ1ヶ月だし、ダカールを出ていない。ダカールの中でも限られた中でしか生活の軸を置いてない。そしてセネガルについて勉強を始めたのも今年になってから。

こんな程度しか知らない者のなにが信頼に足りる情報なのか。

 

今日、研究の先輩とそんな話をした。研究者である限り、その事実は忘れてはいけないと。目に見えたことは大事な情報として取っておくべきだし、聞いた情報も大切にノートに刻む必要はある。だけども、それを一般論だとするのは浅はかだと。なんでもすぐに主語の分母を増やす人は怪しいし、研究としても信頼はされないぞ。

 

メディアがどうとかは僕にはいえないけども、確かに分母を大きくする人はあんまり信じるべきでないと思う。

"人間って…"

"男って…"

"日本人って…"

 

人間のなにを知っているのか。男のなにを知っているのか。日本人のなにをわかっているのか。

ついつい僕もよく使う表現ではある。こういうタイプの人間はこういう感じだろ、みたいな。本当は良くない。例外はどこにでも存在するし、なにより動物は同個体は存在しないんだから。楽しちゃうよね。

あ、もしかするとこれも分母を大きくしているかもしれない。

 

 

なにはともあれ、情報リテラシーは難しいね。気をつけたいねってことだ。

セネガルのことをわかったつもりになるのは当然早すぎるし、永遠に分かる日は来ないんだと思う。

来るのは、わかったようにな気分になる日か、わかるためのミクロなピースを得た日のどちらかなんだね。

 

分析することは大事で絶対に必要なことだ。その結果一定の方程式を得ることができるかもしれないし、黄金律みたいなのを得られるかもしれない。

でもそれを神のように崇めるのは間違いなんだろうな。それは情報であり、主体ではないんだと。"わかる"っていう状態は、本当はわかってないことが多いんだと思いました。

自戒を込めて。謙虚にね。

〈370.不思議な人〉

10月3日。

 

セネガルは80とか90%の人がムスリムらしい。それもその通りで街のどこにいても聞こえるコーランっぽい放送が時間になると聞こえてくる。町のあちこちにちっこい絨毯があってお祈りの場所にしているらしい。とはいえ厳しい国に比べたら緩いので顔を出している人がほとんどだし、ビールもスーパーには売ってる。

 

だけども、子供なら誰しもコーランは勉強させられるとか、モスクには行くとかで、ムスリムじゃないセネガル人はちょっと不思議に見られたり異端と思われたりもするらしい。

 

というのも、その"異端"にあたる人と仲良くなってホームステイ先までありつけた。

 

その異端の人、いやあんまり良い呼び方じゃないな、賢い人としよう。賢いその人はどの宗教も信じず、というか日本人的な価値観を持っている人だった。

 

宗教を信じて平和を願っても異宗教同士で鉄砲を持ち出すのはおかしいだろう。

もともとの素晴らしいどの宗教でも共通点は愛なのだ。僕が信じるのは、動物的みたいな自然に対する愛なのだ。その愛はもちろん環境も対象だし、そこから誕生する生命への敬意でもあるのだ。そして、もちろん僕自身を大切にすることが大事で、それは頭を良くすること、体を良くすること、心を良くすることが愛するということだ。

 

そういう価値観だった。

彼は32歳の不動産関係をお仕事でやってるけども、子供の頃は家族みんなで路上生活だったらしい。だからこそ、宗教がしっかり根付いている社会でそれを相対的に観れたのかもしれない。

 

セネガルでは珍しく英語もフランス語もウォロフ語も彼の地元のセレール語も堪能、スペイン語も少しできるとか。ほかのセネガルの人とはちょっと違う不思議な人だと思ったら、宗教観の違いだったらしい。

 

僕がここで言いたいのは、宗教を信じることが悪いとかではなく、環境も大事だけど、自分の脳で客観的に見る力がその人の人生を左右されるということ。ムスリムもクリスチャンも仏教徒も関係なく、人として客観的に自分を見る能力っていうのが、ある意味教育の賜物になりあるんじゃないかと思ったり思わなかったりする。

 

環境のせいにせず、自分で切り開きなさいよ。それを学びました。

環境すら、自分で変えればいいんだ。元ストリートチルドレンの賢者はそう伝えてくれた。

 

考察系ブロガーにおれは!

 

ワンピースが好きで、あ、海賊王におれはなる!のほうね

 

YouTubeを見てるとこれから麦わら海賊団がどうなるのかとか、ワンピースってそもそも何かとか説明してある動画ついついポチポチ押してしまうのだけども

 

ああいうのちょっとやってみたいんだよなあ考察系

 

映画が好きだから映画の考察とか説明をブログでやってみようかなと思って

 

ブログじゃなくても映画評論家とか雑誌とかラジオで前知識の説明してるからやっぱりそういう人はいるし世間の需要もある

 

これからどうなっていくのか!とかの未来予想は映画2時間弱の尺で物語完結しちゃってるから考察っていう形ではなく、前知識の伝播なのかな

 

例えば、来年2020年3月20日公開のDCコミックからハーレークイン主役の映画 "Birds of Prey "

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https://youtu.be/G3ncN7e9Z9U

 

ハーレークインって誰かっていうとこの画像の1番デカい人でツインテールのちょっとやばそうな女の子

 

バットマンっているじゃないですか?そうあの全身真っ黒のコウモリヒーロー。そのバットマンの強敵の1人がソロで映画になりますよってことらしい

 

結構自分の中では話題で。まあ、そんなことは置いといて

 

タイトルBirds of Prey は直訳すると猛禽類、つまり鷹とか鷲とか梟のことらしくどゆことって思いません。なんで鳥なんやと

 

以前、ハリー杉山さんというイギリス出身のタレントさんがラジオでイギリス英語独特のスラングを解説してるときに

 

"Bird"は女の子のことを指すって言ってたんです、それをピンと思いついて

 

ああ、捕食する女の子ってことか!

この話の大筋としては女の子たちが男達に反撃する話なんだ!

 

予告動画見てみたらわかるように、確かにかわいい女の子たちが男達をボコボコにしそうだなという感じが伝わってくるわくるわ

 

いま、こういう映画を作ったってことはコレがウケる勝算がある。つまり観客にはそれを受け取る準備があるってこと。そうなると時代の流れみたいなものも汲み取れるから映画って深読みする価値あるんですわよ。

 

まあ、話が長くなりましたが考察系アリかなと。

好きなことは好きなだけやろうと思う次第であります。

 

 

 

 

〈369.しんじてみる〉

10月2日。

 

やっぱり今日もボロボロだった。先輩の研究場所に連れて行ってもらい、持ってるウォロフ語すべてを使ってやろうとした。

 

しかし、主語が出てこない。ウォロフ語は時制とか強調とか、とにかくたくさん主語がある。

そして動詞が出てこない。ようやく主語が出てきても動詞が出てこない。こっちから話すことはできない。

だからといって、聞き取れるわけでもない。ペーパーで学んだ単語が聞き取れない。もう悔しさ通り過ぎて怒りしかない。

 

とはいえ怒っても仕方ない。家に帰ってノートとスマホに残したメモを元に勉強用のノートにまとめてみる。ああ。これとこれがこうなるのね。繋がり整理され、ようやく頭にストンと落ちてきた。悔しいけども。

 

 

喋ることができないとあれこれ言われる。

ペーパーベースの勉強はダメだ、喋らないとダメだ、学校に通うべきだ、泊まり込むべきだ。どれも正しいけども、僕の性格上どれもタイミングじゃないってのは最初からわかった。

悔しくて悔しくて頭にきたけども、ここまでのペーパーベースの学びがあったらストンと落ちるものがあったのだと思う。

 

ここまでのペーパーベースは僕に適した方法だった。

でも、ここからは外に出るべきだろう。話す割合を増やし耳を慣らすことだ。ここまでのペーパーベースをアウトプットするタイミングが来たんだ。

 

バカにされるし、良いことなんてないけども、これが不器用な俺の勉強方法だったんだ。ここまでは、底辺を這いずり回る線だけど、ここからは能力逓増になるんだ。全てが繋がって聞こえてくる。そういう来月があるんじゃないかと思う。そう俺だけは俺を信じてあげたい。

 

この1ヶ月の引きこもりペーパースタディは俺の道だ。

かっけぇ道は歩めないけど、がんばります。

だいちありがとう。帰国したらウォロフ語教えてあげる。