ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈739.巨人狩りしよう!〉

10月6日。

 

シュワルツマンというテニス選手がいる。過去最高世界11位、28歳。2018年ごろから特に結果を出し始めた遅咲き。

そして彼の特徴は170cm64kgという体格。180-190cmの身長はプロツアーではほしいところだと聞くけども、その中で170cmはあまりにも小さい。サーブはもちろん、ラリー戦でも上背がないというのは難しい。パワーもそうだし、物理的にネットの上から打てる範囲が狭いのはそれだけで攻守の形が決められてしまう。

 

 

そんななかシュワルツマンは、とにかく拾いまくるフットワークとショットセレクトが秀逸だと思うのです。

西岡選手も170cmの64kgということで、彼のプレースタイルもフットワークと戦術という似た長所がある。

やはり巨人たちを仕留めるためには、頭の良さとタイミングを待ち続けるタフさが必要だということか。

 

 

僕も身長は169cmのチビである。でもフットワークもなければ戦術もないので、固定砲台として強打するしかなかった。

でもやっぱり実体験として、身長あるやつが打ってくる強打にはどうやったって勝てない。安定感も段違いだし、パワーも違う。

さらなる強さを求めるのなら、強打だけじゃなくて、それを生かす戦術なり、カバーできる脚力なりが必要だったんだろう。

 

 

いままさにシュワルツマンとティエムが全仏で戦っている。185cm79kgのティエムはやはりハードヒットが持ち味。

しかし今日は風が強い。ティエムのハードヒットのタイミングが取りにくい試合になっているので、シュワルツマンがいくらか有利に見える。

決してティエムのプレーは悪くはないが、シュワルツマンが拾い続けて、タイミングを見て守りから攻めに切り替えてくる。それに対応しきれていないティエム。シュワルツマンの強さが発揮されている。

だが、第二セット第9ゲーム。1ゲームに10分以上かかっている。シュワルツマンも積極的な攻めに周り、その分ミスが増えている。要所要所の完璧なボレーによって、流れが行ったり来たり。

このゲームを取ったほうが第二セットを取るであろうことはもちろん、試合の結果に大きく左右する。

 

ティエムもシュワルツマンも、とても好きな選手なので良い試合になってほしい。いやあ面白い試合だ。

 

 

戦闘力179日目

1219(+2)

その他+2

 

この試合に勝った方に、全仏優勝してほしいな。

〈738.旅行〉

10月5日。

 

懐かしい思い出のある場所にいくと、その当時の記憶が思い出されるのはわかる。

しかし、その場所には関係ないけど似ているおかげで忘れてた記憶を思い出すのはなかなか不思議だ。お線香のかおりととお盆に飾るお団子の味を近いタイミングで感じると実家近くのお寺を思い出す。小学生の時にお団子を母と作ってお墓に供えた記憶。お寺の住職に駄菓子をもらった記憶。自分史の中じゃあ古いもの。

それが全然関係ない京都で出てくるのは不思議。

 

 

記憶っていうのは感情とか感覚に近いように思う。理性で把握できる記憶は衝撃のでかいものか最近のものに限られる。唐突に、なんの前触れもなく、ちょっとしたきっかけで爆発的に芋づる式にぼこぼこと思い出される。

そのきっかけがいつ、どんな時に来るのかはわからない。し、きっかけがきてても心とか頭とか、そういう思い出すモードがなってなければ思い出すことはない。

だからこそ、思い出す触媒としてこういう文章とかアルバムとか物とかが大切に扱われる。なくしちゃうと、記憶を失うことにもなりかねない。

そういうわけで、僕はものが捨てられない。大切ななにか、今は意味を持たない物でもいつか突拍子もなく意味を持ち始めるもの。そういう可能性を火に配るほどキマってるわけじゃない。

 

 

それを、ものに見えるようにしたら、妖怪として絵にされるんだと思う。モノに宿る魂、それ自体が意味を持ってなくても、意思がなくても、まわりがいろんな意味を持たせたら、そいつ自身が意味を持つようになる。付喪神ってもともとそうやって考えられたんじゃないかって想像してみたりできる。思い出が放棄された恨みをもって、人を祟るようになるんじゃないか。とか。

 

それくらい、ものって人間に対して影響力を持つモノだ。アクターネットワーク理論っていうのはそういう人も含めて社会全ての存在を考えようってものだと思うし。

 

観光してるとそういういろんなことが思い浮かんでくる。ある程度勉強したら外に出て、そこでまた勉強して、を繰り返すのが楽しい勉強なのかもしれないとようやく気づくのです。

書を捨て街へ出よ。なんて言葉もあるようだし。その前にちゃんと書を持ってないと捨てられないけど。

 

 

戦闘力178日目

1217(+3)

その他+3

 

まとまった時間を取るのがもったいない日っていうのもあるものよ。

〈737.勉強します〉

10月4日。

 

現代アニメと古典の関係性についての新書を読んだ。おそらく論文で使った内容を新書用に簡単にしたようで、深い議論はほぼなくわかりやすくまとめていた。いまも古典の影響を受けてアニメは成立しているとな。

決めポーズは歌舞伎の見得から着想を得ているらしい。オマージュ(敬意)によって表現される過去の作品の引用は、表現者受取手の共犯関係を生み出すとか。

アニメに限られず、映画も小説も漫画もゲームも、別ジャンルの古典から勉強していることは深く役に立つんだろう。

 

 

なんで古典を勉強するのかといえば、いまの文理問わない科学が発達するに至る原初の形を知ることである。そして失礼な言い方が許されるなら、いまほど専門化されてないので荒削りであったりする。だからこそ、現代科学に至るまでに削ぎ落とされてしまった曖昧な科学的な証明が難しいものも含まれていたりだとか、今に伝わるくらいに人間に響く何か根本的なものが含まれている。

それを解明することが古典を研究する人たちの目的だったりするのかしら。そこはわからないけど、少なくとも古典にハマってしまった非研究者はその、よくわからないなにかの魅力に取り憑かれたのだろう。

 

 

古典はある程度の知名度があるのは約束されているので、オマージュとして引用しても受取手にわかってもらいやすい。その秘密を共有してしまったかのような共犯関係はとても面白い。おいおいそんなこと言っちゃっていいのかよみたいな一種呆れ笑いみたいな、なるほどここであの話に展開をつなげるのねみたいな感動感心だったり。

知名度があるっていうのはそういう面白さを生むことにもなる。

 

この世の作品は全て過去にできた作品のオマージュでできている、みたいな言葉があったと思う。誰のどういう言葉なのか忘れちゃった。

まあ世の中にウケる作品っていうのは、結局ウケてる作品を勉強してようやく見つけられることなんでしょうな。

型破りと型なしの違いみたいな。型を習得しないと破れる型もないみたいな。

 

勉強しましょうね。

 

 

戦闘力177日目

1214(+3)

その他+3

 

そういう共犯関係をたくさん結ぶって意味で、勉強することは根本的に楽しいんだと思うんです。

〈736.泣いてしまえ〉

10月3日。

 

感情は難しい。

感情のおかげで色々素晴らしいことがある一方で、感情のせいでとにかく難しいことがたくさんある。整理できたと思ってた感情が数年越しに吹き出すこともあるし、もやもやしているのが一瞬にして吹き飛ぶこともある。

理性で制御できないのは難しいよ。

 

 

どんなニュースでも、数日経ってしまえば消費される。自殺のニュースも紛争勃発のニュースも、誰かの人生のトリガーになってるかもしれない。でもすぐに情報の一つとして大半の人からは抜けていく。数年もしてしまえば、そんなことあったかしらと首を傾げられてしまう。

でもそれを大切に思っている人からは永遠に抜け落ちることはない。そういう場面になったら悲しみに暮れるだろう。

いや、いまのは正しくないか。忘れられることは正直どうでもいいかもしれない。本当の無になれたらきっと楽になれるだろうし。

 

誰がどう見るか思うかとか、そういうことはそれほど大事じゃなくて、その事実が永遠に、昇華されたと思ってもしこりになる。それがつらさだろう。つらさであり、それが記憶するってことの一部だ。

 

 

しこりとして残ってくれるからこそ嬉しいこともある。

死んだ親友との記憶も、一緒に訳もわからず自転車を乗り回した記憶だったり、レジャーシートの上で一緒にゴロゴロしたり、僕の後頭部から血が出てきて家に謝罪に来られたり。

しこりとして残ってくれたからこそ、昇華できなかった、する必要がなかったからこそ、いまでもくだらねぇなぁと笑うことができる。

もちろん、笑えるようになったのはつい最近のことだけども。それでも、すべてを悲しみの記憶っていうラベルを貼らずに済んだのは、忘却しないおかげ。

でもいつかは薄らいでいくのだろう。僕が死ねば、その記憶も一緒に消える。

 

 

もし、目の前に悲しみが生まれてしまったら思い切り泣くのがいい。泣いて泣いて、何年も泣いて泣き続けて。涙が出なくなっても泣き続けて、それでも泣いて。

ふと泣いてる自分がおかしくなって、泣きながら笑うようになる。そしたらその記憶を背負ってようやく立ち上がることができる。

泣いて泣いて、泣き続けている時に中途半端に割り切らない方がいい。割り切れるわけないんだから。それこそあとで後悔する。

もう神様も呆れるくらいに泣いて、そしたら立ち上がればいい。

 

焦る必要なんてないし、亡くなった人がどう思うかとか、誰がどう思うかとか関係ねぇから。だって死んだ人はそう思ってるわけないし、そもそも思考することができないんだもの。まわりのひとがどう思うとか関係ない。その人とあなたとの関係はあなたしか知らないのだから。

そういう時は、自分がどうしたいか、それだけ考えればいいと思いますよ。

 

自分に言い聞かせているんですがね。今夜もきっと僕は泣きますよ。笑いながら泣きますよ。悲しいんだもの。悔しいんだもの。楽しかったんだもの。でもやっぱり悲しいんだよ。

 

 

戦闘力176日目

1211(+6)

勉強+4

その他+2

 

誰かが消費するなにかでも、誰かにとっては永遠の宝にもなる。だからといって消費するのが悪とはいうまいよ。そんなのどうでもいい。大事に思う人が大事にし続ければそれでいい。

生きるってそういうことなんじゃないかと思い始めておるのです。

〈735.想起すること〉

10月2日。

 

ちょっと最近忘れていることがあるのでメモしておこう。いつか見直した時に、このごろにはそんなもんだったのかと思えるように。例の感染症の話。

 

 

8月にめちゃめちゃ感染者が広まったけども、1日あたりの感染者数はいまは半分くらいに減っているらしい。とはいえ0ではないので油断ならないとは思う。

街に人は出てくるようになったし、GoToキャンペーンが東京も適応されるようになったとかである程度観光もできるようにはなってきたのだろうか。

しかし、マスクして外に出るのはもはや習慣にもなってきて、マスクをせずには街を歩けなくなった。白い目で見られるし、店に入ることはできない。感染症が新しい文化を作り出したのだ。

 

もちろん僕があまりにも世の中に無頓着なだけかもしらないけど、1日に感染症の名前を聞くことがなくなった日もある。どこかの大統領が感染したとかニュースはあるけども、前よりも慣れてきたというか、心配疲れしたというか。もはや当たり前になって考える意味がなくなったのかもしれないね。

しかし、この感染症で失ったものは取り返せないし、忘れちゃあいけない。

 

 

難しいんだ。その塩梅が。忘れてもいいことと忘れちゃいけないことの両方がある。本当に大切なことは忘れないかもしれない。でも忘れずにいることは慣れることにもなりうる。疲れてくる。だんだんなかったことにしたくなる。

事実としては残ろうとも、記憶から消えてしまったらその事実さえも残らない。

だから忘れるなと言い続けることも必要だけど、息抜きしなきゃ長続きしない。

 

だから、記念日がある。祈念日かもしれない。せめてその日は思い出して、考えなさいとする日。その日以外は忘れるとはいかないまでも、脳の隅っこに追いやっていい。でもその記念/祈念日は忘れない。

嫌なことに蓋をしていいのは、諦めた人だけだと思う。自分の人生も他人の人生も。でも他人の人生は他人のものなので、尊重しなくちゃいけない。つまり、諦めちゃいけない。

だから、蓋をして思い出さないと決めるのではなく、特定の日だけ思い出す日にする。

 

蓋をしても、そこにあり続けることはわかってるんだもの。蓋をするのが一番しんどいのよ。

 

 

そういうわけで、例の感染症についてある程度意識に取り戻さない日があってもいいだろう。でも完全になかったことにするわけではないので、機会を作ってちゃんと思い出すことが大事だと思う。

習慣的にマスクをするんじゃなくて、なんでマスクをするのかを思い出す、みたいに。

考え続けることが大事なんだと僕は信じます。

 

 

戦闘力176日目

1205(+5)

勉強+3

その他+2

 

考えても答えはないんですけどね。

〈734.難しい話〉

10月1日。

 

記憶の勉強をしはじめてから、自分の記憶について考えるようになった。

昨日の話は重いような感じだったので、今日は訳のわからない話にしてやろう。

理解できなかったこと。理解できてないこと。

 

 

中学一年生の英語の授業で習う、主格の話。

weが一人称なのが理解できなかった。

Iが一人称なのは、我/私に適応する。わかる。

でも、weという別単語が我々/私たちに適応するのは意味がわからない。Isで私たちならまだわかる。日本語と同じ形。

 

つまり、日本語で僕たち私たちっていう時は、結局集団の中の私という存在が前提にあるんだと思う。私という存在は他でもない私であって、そのまわりにいる友達とかはその他多数みたいな。自分だけ輪郭がはっきりしてて他の人たちはコナンの犯人の黒ずくめみたいな。

でも英語だというweという単語でIという個の存在がない。自分も他人も同列。自分がくっきりしていれば、周りも同じくくっきりしてる。自分がただの黒ずくめであれば、周りも同じく黒ずくめ。

そういう、自分からの目線の発生源の感覚を掴むのが難しかった。

 

 

世界史でアフリカの扱いがほとんどないこと。なのに日本史はあんなに詳しく扱われること。これがわからなかった。ローマとかギリシャは紀元前後からやたら細かく戦争とか残されてるのに、なんでアジアとかアフリカとかは1ページで何百年も超えていくんだろう。

アメリカなんて登場するのはコロンブスが出てきてからだ。

なんのもまあ平等じゃないよな。日本だって、弥生時代とかですっ飛ばされるけど、そこにも歴史はあったはずだろうに。

 

 

自分がこれが好きだという理由。いまでもわからない。

高校生の時にとにかく好きになったゲーム。僕は今後の人生でこのゲームのこと毎日少しずつでも考えて生きてしまうのだろうと思うと、一種呪われたような気分になった。好きなはずなのに。なにかに縛られるような気分だ。

そして、そのゲームがなんで好きになったのかはわからない。キャラクター?世界観?ゲームシステム?それとも友達が勧めてきたから?

ゲームならまだ理解できるかも。それなら、色はどうだ。僕は緑が好きだった。それがいつ頃からだろう、青が好きになった。そこに理由はない。後付けの無理やりなものは用意できるけど、それはそんなに大事じゃない気がする。

でも、なにか理由はあるような気がする。生きることの理由を問い詰めるみたいに。究極的にはないかもしれないけど、どこか自分が納得するところはあるんじゃないかと。

 

 

理解できない不安だったこともある。

最近は一人で過ごす時間が増えたことで、自分自身を考える時間をたくさん取れた。これはかなりありがたい。その代わり、人間関係の時間が大いに減った。減りすぎて、コミュニケーションを正しく取れるのか不安なくらいに。そもそも正しいとかないんだろうけども。コミュニケーションは不安ですね。正解がないし、どの言葉を使っても等しく未来が待っているんだもの。どの言葉を選択するべきか。よく迷います。

 

 

長く理解できずに感覚的に不安だったこと。

昔書いたような気がするけど、ずっと小さい頃から、生きているのは綱渡りのような感覚があった。ちょっとした間違いで見えない闇に落ちてしまうような。そしてそうしないで綱の上を歩いているのはまるで奇跡みたいだと。

その、闇に転げ落ちないのか不安だった。いまはもう不安じゃなくなったような気がする。闇に転げ落ちても、ちゃんと足場を確認して歩けるような気がする。もとの綱の上には戻れないかもしれないけど、どっこい生きてる。そうなれるんじゃないかな。

ネガティブ過ぎてねこうなったよ。

 

 

謎を謎だと認識して、多く抱えることができるようになったのは、一人で自分を見つめる時間をたくさん取った結果だろう。

そして、今後はそれをどこか別に向けるべきだと感覚として思う。自省しすぎたら死んじゃうらしいからね。

つまり、大切な人に向けていくべきだと思ったのです。それがいまできる最善の生きる理由じゃろうて。

 

 

戦闘力175日目

1200(+12)

勉強+5

その他+7

 

なんだか今日はいい日だった。シチューも美味しくできた。勉強も進んだ。やることやった。

誰かの役に立ちたいと思うようになった。自分のためにじゃなくてね。自分が優しくしたいから優しくするんじゃなくて。難しい。

〈733.ネガティブ相談室〉

9月30日。

 

生きることの意味は究極的にはない。だから自省がテーマになった近代の文学者は自殺しがちだった。そういうツイートを見た。

なるほど、明治とかの文豪って言われる人で自死を選択している人をみてもこの人もかぁと珍しくないような気がしていたけども。自分の意味を問い詰めると、意味はないことにたどり着くらしい。

一人の時間が増えていくであろう今後はより一層それの歯止めが効かなくなるかもしれないとな。

 

 

幸いなことに、僕はこれまで自殺してやろうとかリスカしようとか考えたことはなかった。というのも、ある意味ゲームのおかげでして、自分が仮に主人公であれば今後どこかでクライマックスがあるだろうと能天気に考えていたからであります。

いまも心のどこかでそう思い続けています。

 

ただ同時に確信としてあるのは、僕が生きる意味は思ってたよりもないだろうということでもあります。仮に夢を叶えたところで、人が幸せになるだけです。人を幸せにしてなんの意味があるのかわからないです。

世界がよりよくなるじゃないか!と言われても、よりよくする意味はわからないです。どうせいつかはみんな死ぬし、人類もいつか死に絶えるでしょう。何年後になるかわからないけど。こういうリズムになってくると、死んでもいいかぁとなるのもわからなくはないです。

 

 

ただ、仮に今僕が自死を選択したら、カッコ悪いでしょう。主人公にはなれないし、物語のサブキャラにすらなれない。話の筋に関わるためには、やはりちゃんとした人間としてある程度結果を出さなあかんと思うのです。

それに、これまで育ててくれた親もそうだし、仲良くしてくれてる人たちにもマイナスの影響をおよぼす。それだけは避けなくちゃいけない。

どうせ死ぬなら誰も悲しませずにひっそり死ぬべきだ。誰かが悲しんでくれてしまうなら、まだ死ぬべき時じゃない。だからいまはまだ死んじゃダメなのよ。まだクライマックスじゃないから。

 

 

何かしら意味を見出すか、意味を求めないっていうのが生きていくときには大事なんだろう。

〇〇のために生きるっていうのを無理やりにでも信じ込む。その呪いとでもいえる言霊が抜け掛けたらまた呪いをかけ直す。そうやって生きるのに執着する。

あるいは、もはや意味なんてないから考えない。とりあえず目の前のことをやってみる。目の前のことがなければ、やりたかったことをやってみる。生きることに意味なんてないんだから、やるだけやりゃあいいじゃない。

 

ネガティブっていうのは、ネガティブを超えるとポジティブだと解釈されるようになる。自分に意味がないなら、やりたいことをやっても別に誰も気にはかけない。だからやってしまえ。そういうことじゃないかしら。

 

 

戦闘力174日目

1188(+6)

勉強+2

その他+4

 

内山選手も、西岡選手も、錦織選手も、負けてしまった。相手がみんな強かったね。悪いプレーじゃなかった。仕方ない。

観戦の何が悔しいって、自分自身はただ見守ることしかできないことだよ。ジョジョスピードワゴンが言ってたみたいに。

世界レベルってすげえよ!敵わねぇや。