〈1013.椅子倒す問答〉
7月6日。
新幹線とか長距離バスとかに乗ることが最近多い。
そういう時にどうやってリクライニングしようか毎度のことながら葛藤する。
自分が先なら事前に倒しておく。
既に後ろの人が座っているときは特に困る。寝ているのを起こしたら嫌だから、しばらく経つまでほぼ直角で耐える。
同時だったら、ちょろっと声をかければ良いだろう。
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しかしながら、事実だけをとらえれば全員同じ金額を出しているわけで誰もが平等に権利を持ち、享受できるはずだ。
いちいち確認するなという有名人もいたくらいだ。
つまり、だれもが周りを気にすることなく権利を行使してよい。無言で倒しても怒られることはないはずだ。
とはいえ、それでは逆に自分の領域を侵されない権利も否定されることになる。
そうなってくると、後ろに声をかけるのが正解か、声をかけないのが正解なのかわからなくなってくる。
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そりゃあ人によって正義が違ってくる中で、円滑に進めるためにマナーとかがあるわけだ。それが正解ではなく、あくまで参考資料というわけだ。
マナーを押し付けるのはおかしいけど、マナーをないがしろにするのもおかしい。こまったね。
そんな大きな話にするつもりもないけども、根本的には対立する権利の問題であったり、矛盾の問題の解決と同じようなものだと思う。
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個人的な結論としては、自分が相当疲れていて、後ろの人に文句を言われても対抗できる準備ができていれば特になにもなく倒してよし、そうでなければ後ろの人の寝息が聞こえるまで耐える。
いやさ、もっとスマートなのは座るまえに後ろの人に声かけりゃいいのよ。
すんません前の席に座るんだけど明日倒しますよーって。そうすれば後になってどうしようとかなくなってくるし。
そもそも、いや倒さないでよとか言ってくる人もいないじゃん。それこそ倒すなって言ってきたら乗務員に相談すりゃいい。
つまり、乗った勢いで倒す宣言すれば勝ちよ。
余計に見栄とか考えずに、ストレートに欲求を言う練習だと思って。がんばれあたし。
〈1012.ジンギスカン〉
7月5日。
肉はなんでもうまい。
牛はいかにも肉って感じでいいし、豚はさっぱりしていながら脂っぽくていいし、鳥はもう健康一直線。
しかしながら正義はジンギスカンにあると知った今日この頃である。
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ジンギスカンはくさい。基本くさい。獣臭くてたまらない。
しかしちょっとお高い店に行くと、臭みがなくてでもちょっと獣っぽい感じがして良い。上手いんだこれが。
あのなんていうんかわからん、焼肉の網みたいな、真ん中がこんもりと盛り上がっているやつ。あれで淵の部分にもやしを敷き詰めて、羊の肉のくさい脂がしみこむとこれがもうたまんねえのよ。
なんでジンギスカンラーメンがないんだっていうくらい野菜との相性がいいと思う。米が上手いからか!そりゃそうだよな!
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しかし北海道とか牧場出ない限り、ジンギスカンはほとんど食べる機会がない。
北海道民は本州民が牛肉豚肉鶏肉を食べるくらいに羊を食うとか。それが本当なのかはわからないけど、うらやましいもんだ。
ケニアでよくわかんない肉の丸焼きをBBQみたいにして外で食べたことがある。ヤギだと思うけど、それも羊みたいに臭くて上手かった!
海外から帰ってきた友達が持ってきたジャーキーも臭かった。なんの肉なのか忘れたけど、とにかく臭かった。
すっきりした肉は日常食としてもってこいだけど、THE肉を食べたいときはやっぱり臭くて濃い肉だよな!
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おそらく、まだ食べたことのない肉が世の中にはあるのだろう。カエルも食べたことないし、クジラとか、馬とかもちゃんとしっかり食べたことはない。
グルメがそうなる理由もわからんでもない。
もっと知らないうまいもん食べてみたいもんな!
汚くても上手けりゃそれは最高の飯だぜ。
〈1011.友達の世話になる〉
7月4日。
友人にかなりお世話になった。
なんでこいつはこんなに尽くしてくれるのかわけがわからないくらいお世話をしてくれた。
僕はそういうのができない適当な性格をしているので、なんともすごいように思える。なぜそんなに人のために頑張れるのか。
自己犠牲とまでは言わないけども、自分の時間を割いているわけだもんね。すごいね。
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人に時間を割くときは、自分に利益が見込める時に限られてくると思う。
その利益というのは、もちろん金銭的な利益はあるけど感情的な利益とか自己実現とかそういうのもあるだろう。
なにもない虚無についても、なにかしら意味付けすると思う。休憩のためとか。そういう肯定できる理由をつけることで、行動の決断を納得させていると思う。
この意味付けと納得による行動決定の話からすると、友人は僕と過ごすことに肯定的な理由をおき納得していることになる。
楽しい・うれしい・必要などなどがあるだろう。昔からの友人というのはなんともありがたい。
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じゃあ逆になんで、僕はそんなに時間をかけずに適当にしてしまうのか。
一つは、そういう利益がどうとか計算するからだろうか。友人と過ごすことの意味を問うてしまうからだろうか。
いやそんなことはない。友人と過ごすことについて、単純に楽しみでわくわくしていた。
となると、どうやって友人と会うことの楽しみや計画性とかがめんどくささに勝つ日がくるのかということを考えるといい。
個人的に遊ぶならノープランで良いだろうと思ってしまう。しかし、当然そうなると行こうと思った店が閉じていたり、既に引っ越していたりなんてことも珍しくない。
つまり、単純に将来を見据える能力が低いということだ。計画性がない。
もう一つは、友達を大事にすることを恥ずかしく思ってしまうなんともダサい心意気だろう。
これは治したほうが良いだろうな。恥ずかしく思うな。どうやってよ。
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とにかく、今回の経験で優しくされることの楽しさを知った。
次にホストをすることがあったらきちんと優しく計画しようと思う。
実体験というのも大事ですね。
〈1010.コンディション〉
7月3日。
自分のコミュニケーションを意識してみると、疲れていたりネガティブになっている時にやたら否定から会話を始める傾向があるような気がする。一方で機嫌が良かったりやる気に溢れているときは肯定したり意見の主張ができるような気がする。
これはとても重要な会話のポイントだと思う。よーく覚えておけ私。
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例えば、昼飯どうするかと聞かれたときに、マイナスな状態だと何がいい?と相手の意見から聞くことが多い気がする。自分はなんでもいいんですけどね、というような思考の放棄をしていると思う。
逆にプラスな状態であれば、昨日はハンバーガーだったからなあ!とかどうでもいい話で選択肢を出そうと楽しそうにする気がする。
僕がわかりやすい性格をしているからだろうと思うけど、今後生きる上でよく覚えておきたい。
疲れていると、なるべく思考をしないように話題を終わらせようとする。あるいは人の意見を否定して自分の優越感を得ようとしている。文字にするとなんともへそ曲がりで嫌な奴である。
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やっぱり、いい結果を出したいときにはちゃんとしたコンディションを整えることが重要だと思う。
ちゃんとしたコンディションというのは、単純に健康であることはもちろん、睡眠をちゃんと取っていること、悩みがないこと、やるべきことが明確であること、おなかも空いていないことなどが挙げられる。
物理身体的な健康、生理的な健康、精神的な健康。外・内・心が整ってようやく良いコンディションだと言える。
運動はもちろん、勉強も結局はここだと思う。もちろん、こんなことに気づけるのは余裕があってコンディションが整っている時だろう。
波にもまれているときはその波から抜け出すこと、息を吸って吐くことに集中してそれどころじゃないもの。
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だからこそ、余裕がある人からのむかつくご意見というのは一定程度聞いたほうが良いのかもしれない。
あんたみたいな余裕ある人からしたらそうだろうね!というのは重々承知だが、周りからはそうみられてしまっているという貴重な意見でもある。
人の意見にむかついたらとりあえず飯食って寝ることだ。それでもなおむかつくならその意見が自分には合ってないというそれだけだ。
それで聞き入れる気になったのなら、自分が疲労困憊だったということだ。ムカついたことは置いといて、ちょっとした感謝くらいしてもバチは当たらないだろう。
〈1009.コミュニケーション〉
7月2日。
初対面の人と話すとき、話題提供はかなり気を付けなければいけない。
人によって地雷がどこにあるのかもわからないし、話題にしてほしいものも違ってくる。
なので、実際に聞きたいこととは離れた質問をすることで、徐々に聞きたいことのテーマに近づけていく技術というのがとても大事であろう。
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もちろん、その初対面の人とどこで、どんな場面で出会ったのかも大事である。ゲスト-ホストなのか、ゲスト-ゲストなのか、ホスト-ホストなのか。
ゲスト-ホストであれば、やはりゲストにいかにして話をさせるのかが大事だろう。いっぱい話をして相手がふんふんと聞いてくれている様子だと、僕は勝手に信頼関係を築いたような感覚になってくる。
なので、ゲストの同意とか共感を得たいのなら、いかにして相手に話してもらえるような話題を提供できるのかが肝になってくるだろう。
逆にゲストの立場であれば、いかに自分のことを理解しようとしてくるのか、あるいはホスト側がアピールをしてくるのかをそこから試すこともある。一方的にアピールをしてこられては、私がゲストの時はそんな程度ですかとマイナススタートにしてしまっている。人のニーズに合った話ができない人は自己満のために自分を利用するだけだろうからね。
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ゲスト-ゲストの時。これが一番困る。本来はそういう気まずい関係を作ってしまっているホストが悪いのだけれど、だからと言って放棄してしまっては人としての器が知れてしまう。
そういう意味では、やはりゲストの時も自分の話をしてある程度の信頼関係をつくってから、話を聞くことに限るだろう。相手から信頼をしてもらうためには、ある程度「できない姿」を示すことも必要だと思っている。もちろん、完璧な営業マンだったり、カリスマ的なリーダーであればそれが許されないのだけれど。
それよりも失敗談とかを聞いていると、親近感がわいてきて話を聞こう、話をしようと徐々に敷居が下がる気がする。
一長一短だけれど、多くの人と話すときはこれですんなりと話が進むと思われる。
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いつか見返したときにバージョンアップした信頼関係構築術を考えられるようなたたき台として文字にしておく。
失敗談を最初に話しちゃうからしたっぱ臭がするのかもしれない。たまにはミスのない圧倒的なリーダーのような感じになってみたらどうなるんだろう。
後からぼろが出ておしまいか。
〈1008.おそと〉
7月1日。
今年も折り返しになりました。毎年思うけど、どんどん早くなっている気がする。もう半年後には社会人になる直前だ。一年後には社会人。
来年のことを言うと鬼に笑われちゃうからほどほどにするけども、そりゃまあびびりますよ。
ちゃんと勉強できているだろうか。
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2021年前半は去年に比べたらそんなに大きい出来事はなかったかな。もちろん海を越えたらいろんなことがあったし、人によっては大小あろうけども、この半年どうでしたかって聞かれたら結局自分の出来事で頭がいっぱいだ。
感染症で社会が変わりましたねぇっていう去年のインパクトに比べるとすべてが霞んでしまう。
とはいえもうじきオリンピックなんでしょう?ワクチンもどんどん広がっていくだろうし。2021年後半はどうでしたかっていう問にはそろそろポジティブな展開になって欲しいもんだね。
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コロナに気を取られてたおかげで、最近は暑いとか寒いとかそういう問題がどこかに行ってしまったような気がする。基本家にいるから空調の整った日本なら例年よりマシなのかもしれない。
最近やたらめったらテニスをするおかげで天気がどうだとか気になるようになったけども。外に出ないと外のことはわかりまへん。そんで運動したり太陽浴びたりするのはメンタルが安定するような気がする。
外に出ると危ないけど、外に出た方が安定するという矛盾。大変な時期に青春を送っている人たちは大丈夫かしら。
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今日もまた雨上がりにテニスをした。ソーシャルディスタンスのスポーツなのでプレーにまったく支障がないのはありがたい。チームスポーツになるとなかなか難しいからね。
外の雨上がりの匂いだったり、曇りの匂いだったり、濡れた土の匂いだったり、忘れてたいろんなことを思い出す機会にもなっている。
メンタルがやられたら、ちゃんと食って寝て、そんでもって日中に川沿いとか畑道を散歩しようと思う。アウトドアなことに特別興味はないけど、ぐだぐたするなら部屋に籠るより外でしてた方が自分が許せるような気がする。
そういうことを知ることにもなったのが、この半年だったのかもしれないわね。
とはいえ、油断しちゃああかんのやけどもね。手洗いうがいはもちろんよ。
〈1007.体力のこと〉
6月30日。
テニスっていうのは結局ミスのスポーツだと思う。
錦織選手も西岡選手も一回戦の勝利はやはりミスの少なさだと思った。もちろん、そのミスを誘うのはそれまでの攻める姿勢だったり戦略だったりするが、やっぱりミスすれば凹むし、ミスしてくれればプレッシャーもなくなってくる。
要所でしっかりミスなく戦略的にボールを回せるかということが勝ち負けを分けるだろう。
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かつて、めっちゃ強い選手と試合をしたことがある。
結果はかなり差をつけて負けたけど、結局安定度の差である。僕がどんなに強打をしても、それと同じスピードで常に打ってくる。
僕にとっての80%が相手にとっての60%のような感じ。なので、僕はミスする確率も高いが、相手はまだ40%の余力があるのでいけるといった感じだ。
なんとも悲しいが、それが実力の差というものだ。それは単純に筋力差ということもあるが、全身筋力、体力などなど。
野球でいうと、ピッチャーとして永遠に投げ続けられるか、同時にずっと打席を任せられても耐えられるかというようなもんだ。
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もちろん体力的な問題が全てではないけども、いかに体力をつけられるか。大会中であればいかに温存し続けられるか。これが最大の勝負のカギだと思う。
基本的な筋トレとか走り込みとかが嫌いだった僕は、当然ながら大きい大会になると結果を出せなくなる。悲しいね。
こんなしょうもない地味な練習をするよりも、派手な決め球を打ち続けるほうが楽しいし上手くなったような気がするというのはよくわかる。
それがあるから、決め球のミスがなくなるわけだけど、肝心のそのチャンスがこなけりゃ意味がない。
こんな勉強してなんの意味があるんですかという反抗期の生徒に、こんなこともできない君はなんの役に立つんですかあ?と答えた先生がいたとか。
テニスでも結局そういうことだとこの年になってようやく理解できた。
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さて、仮にこどもにテニスを教えることになったらどうやって体力の重要性を理解してもらえるだろうか。
結局のところ、自分で痛みを知り、同時にその痛みを乗り越えることで知ることができる世界を実体験するしかあるまい。難しいね。
あるいは、体力があることがかっこいいと思ってもらうことだろうか。いいモデルであることも大事だろう。
走り込みするかあ。