ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1370.ロジカル信奉の危険性〉

6月28日。


「論理的」というのは非常に重宝される。感情的にならずにものごとを観察できるわけだし、問題の原因分析とか解決策とか、再現性が高い話ができる。いいこと尽くしである。
しかし、その「論理的」という衣をまとうことでなんでも許されるような態度をとることがあるような場合があるように思われる。話としての筋は通っていても、人間だもの、納得いかないし反抗したくなる時もある。
つまり、だれでも理解できる話をする論理性は、「あなた」に届かないことがあるということである。



例えばグループワークをしているとして。
なにか新しいビジネスアイデアを生み出そうということになったとしよう。
そのときに、なんとなく肌感覚で、キメツが売れてるので自分達のビジネスも早いところ人気IPとコラボしようと言い出した人がいる。


それに対して、実際どうなのかを数字を出してくる人は非常にありがたい。
というのも、売れているという肌感覚は、自分自身がターゲットの一部でまわりの人間もそう見えているだけで、世の中ではそれほど人気のない場合もあるからだ。
あるいは認知がなくても、一部の熱狂的なファンが大金を投資しているかもしれない。そういう解像度をあげるためにも数字はいい。


ということでキメツとコラボしてきたコンビニとかカフェとかが売れ行きがどうなったのかを調べられたとしよう。
それをロジカルなチームメイトがとうとうと話をして、結果的にそれほど売れ行きがなかった時。
「IPとコラボするのは安直で、投資しても十分な利益をえられません。建設的な意見ではありません」


これが問題だというのだ。
言っていることに間違いはない。意見が没なのは当然である。
しかし、この発言を受け手が、他チームメイトがどう感じるのかを考えてくれただろうか。



「キメツとコラボしたらええやん」
これを言い出した人間は、今後発言しなくなるだろう。
自分がした提案はつまらないという判定が下ったため自信がなくなるだろうし、やる気もそがれる。「じゃあお前が発案してくれたらええやん」
些細なアイデアを潰される場であると察すれば、他のメンバーも発言しなくなる。「どうせ案をだしても意味がない」
ロジカル人間が定期的に作り出すのはこれである。


もちろん、一個一個のアイデアを大事にしすぎたら話が展開しないので、定期的にアホなアイデアはきちんと方向修正するのも大事だろう。
ただアホなアイデアを潰しすぎると、アホでないアイデアも潰しかねないということだ。
結局アイデアは数うちゃ当たるみたいなところがある。だから、数打つ環境を潰すのはあかん。



論理的であることは、効率化するためには非常に重要である。
スピード感が必要であればどんどんロジカルになる必要はある。


ただ、それではできない部分も無きにしも非ずであることを忘れてはいけない。
人間が人間らしくふるまえることで出てくるアイデアも大事にする場があるべきである。
つまり、今後大事なのはロジカルさではなく、ロジカルとエモーショナルを使い分けられることであろう。

〈1369.プール〉

6月27日。


先日区民プールに行った。
高校では水泳の授業がなく、大学に入ってからもプールには一度もいったことはなかった。海には数回行ったから、まったく泳いでなかったわけではないが、実に10年ぶりくらいの真面目な水泳である。
まったく泳げないわけではないが、ガチで泳ぐ人がいたらと思うと気が引ける。そう思って渋っていた。
しかし運動不足で腹に脂肪が増えつつあるので、さすがに運動が必要である。ということで、激安で時間も2時間は泳いでよしということで行くことにした。



行ったのが休日だったのもあるだろう。
入るために30分くらい列に並んだ。これももう驚きである。
そしてまあこれは想像通りだが、並んでいるほとんどが親子か小学生である。
同年代はひとりもいない。20代30代がいない。まあ区民プールなんてそうだよな。


そしてようやく泳ぎ始めようとプールサイドに着くとびっくり。
こどもばかりなので、泳ぐレーンはまったくいない。自由に遊べるエリアが密であるだけで、非常に快適なスイミングタイムであった。
これはまた来ることになるだろう。



そして泳いでみるとどうだろう。
クロールを25m泳いだだけで肺がもうやばい。3回腕で水を掻き、4回目で呼吸をするリズムだと小学生の時の水泳教室で習った。そんな耐えられないよ。2回目で呼吸をするしかない。それでも結構限界である。


そんなだと耐えられないので、ひたすらのんびり平泳ぎである。平泳ぎならそんなにきつくない。
と思っていたのだが、後ろからの圧がすごいのだ。
考えてもみてほしい。休日の区民プールにくるおっさん。パチンコとか他の運動ではなく、泳ぐことを楽しみにしているおっさん。
永遠にクロールを同じスピードでぐるぐるやっているのだ。


もちろん初級・中級向けレーンなのでザバザバスピードをあげるわけではないが、同じスピードのクロールがぐるぐるやっているところで平泳ぎをする勇気。
定期的に道を譲るのだが、それでも平泳ぎが遅すぎたら邪魔であろう。
ということで、どんどん焦って掻きまくってしまう。平泳ぎが得意な人を想像したらわかるが、あんなもんいっぱい漕げばスピードが出る泳法ではない。ちょくちょく伸びる時間が必要なのだ。
だからどんどん足掻けば足掻くほど遅くなる。
なんとも負のループである。



とまあ、クロールと平泳ぎで結局30分くらい泳いでいたらへとへとである。
でもまあ、暑い中、水の中を泳ぐのはそれはそれは気持ちのいい体験だった。
なにより、運動というのは気持ちがいいもんだ。
自己肯定感がさがったら泳ぎにいこう。1回200円くらいで気軽に行けるのもいい。

〈1368.姉貴〉

6月26日。


姉の誕生日である。
姉はこの先もずっと独身を楽しみ続けるのだろう。仕事もようやく本来やりたかったことに辿り着いたようなので、ぜひとも楽しんでほしい。
私にとって姉は、私と最も似た価値観の持ち主であるので親友であり、同時にライバルでもある。姉が夢をつかもうとする姿を見ると非常にうれしい。その反面、非常に悔しくもある。自分がまだ足踏みしている隙にどんどん進もうとしている。


どうか長生きしてほしい。



これまでの人生でも姉貴は俺の進む道を示してくれている。
高校で地元にするか、電車で1時間の良いところにするか、これでも姉が先に1時間の選択をしてくれた。だから俺が選択するときの迷いがまったくなかった。
大学受験でも、姉がある程度のところに進んだので、そこをひとつのラインとして努力ができた。
大学入学後のキャリアを考えるタイミングでも、姉は「自分がやりたいことをやるべし」といってくれた。


そしていまも姉貴は姉貴がやりたいことをやりながら生計を立てている。
人生における優先順位を示してくれている。それを僕は踏襲するつもりはないが、優先順位を間違いないようにする良い指標でいてくれている。


勝手にだが、僕の夢の先には姉貴が関わってこなければ成しえないことがある。
それを成し遂げるためにも、姉には頑張ってもらわなきゃならないし、俺自身の能力もあげなくちゃならない。



俺が死んでも姉貴が俺の夢を果たしてくれるだろうし、姉が死んだとしても俺が成し遂げることができる。
勝手にそう思い込んでいる。
俺と姉貴の学生の間の生活の仕方は違うように見えて結局似ていたし、大学でもそう。就職でもそう。
同じ遺伝子があって、生活環境が同じだった結果だろうか、世の中で一番理解しあえる存在だと思う。


だからこそ、姉貴に劣っていると触感のように感じることができる。いつまでも姉貴の後ろを歩いていくわけにはいかない。
姉貴と対等になるまで、この絶妙な悔しさはあるのだろう。


だからどうか俺のために長生きしてもらわなきゃ困る。

〈1367.人類のライフステージ〉

6月25日。


中学から高校までお世話になったテニスクラブの先輩が結婚した。結婚式に招待してもらって、半年後くらいに開催する予定である。
ちょうど母になった同期を見たところだったので、いろいろ考えざるを得ない。
しかしめでたい!めでたいし、親しくしてくれる人がめでたいのは純粋にうれしいことだ。


結婚というのはどういう気持ちになるんだろう。一人の人生が二人の人生になることか、もしかすると三人とか四人とかを考えることかもしれない。
責任のことばかり考えてしまうけれど、もっと楽しい経験が増えるという側面があるんだぞ。



例えば昨日の母になった大学院の同期は、0歳の赤ん坊が喃語を話すのをうきうきと聞いている。ママといった、パパと言わせたいという会話をいったい何度しているのだろうか。
まだハイハイもできないのに捕まり立ちができているのをやたら心配して、ハイハイさせようと一生懸命に励ましている。
もちろん寝る時間が削られたり、自分のやりたいことは後回しにしたり、ストレスもさぞかし多いことだろう。
が、定期的にやってくる「入園式」「卒園式」「入学式」「卒業式」などを、親として見守るときの心というのはその立場になってみないとわからない。それが「成人式」を迎えるとなるとどんな気持ちなのだろう。


きっと親でない立場ではまったく想像できないだろう。小説で親役を描こうにもたぶんリアリティにかけた人物像になるだろう。それくらい親か親でないかは大きな違いがあるのだろう。



せっかく人間としてうまれてきたので、そんな文化的ライフステージを歩まずに死ぬのはもったいないと僕個人として感じるところがある。
どんなふうに世界が見えてくるのだろうか。


例えば自分の仕事のことは自分が一番わかっているだろう。だから今の仕事について物語を書くことができる。しかし現場のおっさんのキャラクターは描けない。
そういう、いろんな立場の人を知りたい。その中の今の自分ではもっとも想像できない立場として親というのがあるのだろう。



いろんな人間を知った先で私はなにをしたいんだろうか。
知的好奇心で動いているが、知ってどうしたいんだろう。
例えばそれが未知の大陸の発見とかなら人類の価値になる。しかし、親だって、現場の人だって世の中に無限にいるわけだし、それを例えば文字化した人だっていっぱいいる。


知ることの先で発信したいんだろうけど、それが何のためなのかわからない。
いや、知るというより体験したいのほうが正しい。「親」という立場を体験したい。「現場」の人を体験したい。
そこから見える世界というのは今の僕の見えている世界とはまったくの別物だろう。


そうやった先で世界の正体の言語化をはかりたいのか。社会を言語化したいのか。
そう考えると、「親」というステップは必須である。
遺伝子を残すという非常に動物的な形でありながら、社会に飲まれていく非常に人間らしい立ち位置でもある。



もちろん、そんな好奇心だけで親になるわけにはいかない。
もう少し腰が落ち着いてきたら考えるべきだろうな。


結婚から話がズレてしまった。「結婚=親になる」というわけでもないからな。
そういう意味では、夫婦になるというのが一番想像できないのかもね。

〈1366.家族とキャリア〉

6月24日。


大学院の同期と久しぶりに会った。
会社員になった二人と、海外の大学院の準備を進める奴一人、お母さんになったのが一人。
話の中心は赤ちゃんである。まだ一歳になる前の赤ん坊である。
やはりかわいい、かわいくて仕方ない。でも、お母さんになると当然研究する時間もない。一人の文化的生活を望む自分とお母さんとして子に尽くす自分のバランスが難しいらしい。



昨日の話にもつながるが、何歳でこどもを育て始めるのか、これはかなり大きな選択であろう。
あまりに若いと金銭的負担が大きすぎる。しかし遅くなると仕事やキャリア形成との折り合いがつかなくなって仕事を諦めることになる可能性も否めない。
そのお母さんになった同期は研究者とのキャリア形成が明らかに遅くなっているとちょっとだけ嘆いていた。
キャリア形成よりもこどもが大事、とは言い切れない。しかしながら子供を端に追いやって仕事をするのはさすがに人としてどうかと思う。


例えば今子供ができたら、新人ですぐに休職するので上長としては扱いにくい存在になるだろう。
3年くらい経過してから休職すれば、ある程度は復職のタイミングで仕事を任せることもしやすいだろう。
逆にそこから遅くなって係長とか課長になった時には、復職のタイミングで同じ席が空いていることはないだろう。


すべて推測でしかないので実際はどうだかわからない。しかし、これまた運に左右されざるを得ないような気がするよ。



人生というのは結構運によるものなのかもしれない。
まわりの環境とか、人間関係とか、社会の状況とか。そういうのに強く影響を受ける。
育児となると社会制度・会社の制度も大きく関わってくる。つまり、計画通りなんてことはありえない。


どこで育児するのかも大事だ。
田舎なのか、都会なのか、どんな学校で教育を受けられるように環境を整えるのかなど。
それによって引っ越し先も変わってくるだろう。


ある程度の計画と余裕を持たせることで、想定外のできごとにも対応できるかもしれない。リスクのマネジメントができるというわけだ。確実なんてないけれど、それでも努力できるところはあるだろう。


しかしあまりにがちがちの計画だと破綻した時のリカバリーへの心労が半端なさそうである。
そこの折り合いをどうするのかはパートナーのキャリア形成、自分のキャリア形成のすり合わせ作業が必要そうだ。



考えるべきことが多くあって、自分の人生とパートナーの人生と子供の人生と。とにかく大きな問いが同時に3つ解決できる最善のアイデアをひねり出すことになる。
難しく考えすぎてもどうしようもないけれど、まったくの考えなしで突き進めるほど容易な問題でもない。もちろんそれなりに破綻することのない人生になることもあるだろうが、自分の理想をかなえることはかなわなくなったり、パートナーに無理を強いることになるかもしれない。


慎重にならざるを得ない。
母になった同期がいるというのはそういう意味でもありがたい。
ファーストペンギンは大事なものだ。

〈1365.キャリアのこと〉

6月23日。


家のそこそこ近くにメキシコ料理のレストランバーがある。
開店してもう十年以上らしい。優しい旦那さんと気の利く奥さんの熟年夫婦。息の合ったキッチンとホールの仕事ぶりは憧れである。夫婦で店を営むのはいろんなストレスもあるだろうけど、きっと楽しいのだろう。



僕が老後とか100億円をもらったら、なにがいいかな。
レストランをしたいという気持ちはないけど、例えばテニスクラブを開くとか、寺子屋するとかいいなあ。
あるいはパートナーのやりたいことを支える仕事もいいかもしれない。
どちらにせよ誰かとの関わりの中でやりたいことで社会との繋がりは持ち続けておきたいかな。


もちろん金と時間があれば、小説家を目指すとかインディのゲームクリエイターを目指すとかもありかもしれないけれど、たぶんそれだけだと発狂するだろうな。
大学時代みたいに自分の自主性だけで動くのは結構心労がでかい。
それよりもある程度目標とかタスクとかが明確で働くほうが楽である。その空き時間で作業する時間を捻出するほうが性に合っている。



例えばレストランをするとしても、セネガル料理とかそういうニッチな店がいいな。あんまり目指すべき味が認知されていないので自分流のアレンジという名の怠慢も許されそう。こんなこと言ったら怒られそうなもんだが。
和食で、洋食で、中華で、というのはその道のプロがとんでもないレベルにいらっしゃるので差別化が必要であろう。


でもそこまでして料理をするほど好きではないのでたぶんやらないだろう。
それより教えるとかのほうが好きだ。学校みたいな嫌でもいかなくちゃいけない場所ではなくて、好きで来たくなるような場所をつくってあげるとか。
そういう自分の好きと相手の好きが重なる場所で仕事がしたいな。


そう考えれば、いまの職場というのは恵まれているのだろうが。



転職するとするなら、会社でやりたいことがなくなったときだろう。
その時には別の会社かもしれないが、そんな時に自分一人で食っていけるようなそんな価値のあるものを市場に出せるような存在でありたいなあ。
だとしたら何年後になるのだろうか。老後とか言ってられないわね。


メキシコレストランバーの夫婦が開店前になにをやっていたのかは知る由もないが、仮に30-40代で開店するとしたら、就職して10年から20年で独立できる力を付けたことになる。
結構時間はないかもしれない。
35歳が10年後である。子供がもしかしたら幼稚園・保育園で日中過ごしているかもしれないし、小学校にあがるくらいかもしれない。子供に時間がかかるタイミングであることに変わりはない。
その難しい環境で独立する気は起こるだろうか。


なるようになるしかない。それになったらきっちり覚悟をきめなくちゃならん。

〈1364.友達〉

6月22日。


神田で岡島だいちと飲み屋にいった。
大学を卒業してから4年になったが、それでも仲良くあるのは運がいいといえる。それはひとつにはこのホウチガもあるわけだ。そしてたまたま三人とも東京付近で仕事をしているからこそである。
旧友との繋がりは大事にしたいものだ。そして人間関係というのは運も大きな要因になっているのだろう。



東京にいる友人はたぶん他にもいるだろう。高校時代の友人までさかのぼればたぶん相当数いるはずだ。
でも、時々でも連絡を取るのはわずかに10人いるかいないかだ。
おそらく別の世界線では仲のいいであろう友人は他にもいるだろう。だが、タイミングとかちょっとしたなにかのずれから連絡をとらなくなっている。そして一度とらなくなると、取るべき理由も失う。
そのきっかけは一体何か。


大学時代とかにしょうもない連絡をし始めたかどうかにあるだろう。
例えばお前のいる県に今度遊びにいくぞとか、お前が部活でやってたの俺もはじめたぞとか、お前が好きだった作品を今になって好きになったぞとか。
そういうちょっとめんどくさいを超えられる関係性があるかどうかかもしれない。
つまりは運がいいことは前提として、根本的に波長が合って、仲良くやりたいかどうかにある。



だいち岡島と同じサークルにも仲がいい人はいた。
でも連絡はさっぱりとらなくなった。逆に二人と連絡を取るのは、ホウチガ用のライングループがあって、そこで時々飯いこうとかゲームしようとかそういう話をする場所が用意されていることもあるだろう。
あとは、三人とも大学卒業してすぐ働き始めたわけではないという身の上が近しいので話が合うというのもあるかもしれない。
そういう意味でも全ての歯車が嚙み合っていたという運の良さがある。


おそらく今後、仕事が忙しくなったり、もしかすると転職とか転勤とかで連絡をとらなくなるかもしれない。
想像上の昔の日本より職場で休みの日も仲よく過ごす人は少なくなっているんじゃないかと思う。そうなると、どんどん休みの日は一人や家族で過ごすようになるような気がする。
すると、どんどん自分の世界しか知らないまま老化していくのだろうか。
もったいない。今連絡がとれる旧友は大事にすべきだろう。



僕は中学の親友を高校3年の時に亡くしているわけだが、自分も含めて老化ということはどんどん死が近づくことでもある。
30代で死ぬ人もいるだろうし、そういう人はどんどん増えていくだろう。
いま親しい人間がいつ死ぬのかはぶっちゃけわからない。
だからこそ、いつ別れてもいいように後悔なく過ごしたい。


連絡をとらなくなったかつての親友も、ちょっと連絡をとってみるのもありかもしれない。
まあ突然連絡するのは奇妙だし、宗教とか勧誘に思われてしまうかもしれないので、そこはちょっと考えたほうがいいかもしれないが。
でも後悔するよりはマシだぞ。