ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1367.人類のライフステージ〉

6月25日。


中学から高校までお世話になったテニスクラブの先輩が結婚した。結婚式に招待してもらって、半年後くらいに開催する予定である。
ちょうど母になった同期を見たところだったので、いろいろ考えざるを得ない。
しかしめでたい!めでたいし、親しくしてくれる人がめでたいのは純粋にうれしいことだ。


結婚というのはどういう気持ちになるんだろう。一人の人生が二人の人生になることか、もしかすると三人とか四人とかを考えることかもしれない。
責任のことばかり考えてしまうけれど、もっと楽しい経験が増えるという側面があるんだぞ。



例えば昨日の母になった大学院の同期は、0歳の赤ん坊が喃語を話すのをうきうきと聞いている。ママといった、パパと言わせたいという会話をいったい何度しているのだろうか。
まだハイハイもできないのに捕まり立ちができているのをやたら心配して、ハイハイさせようと一生懸命に励ましている。
もちろん寝る時間が削られたり、自分のやりたいことは後回しにしたり、ストレスもさぞかし多いことだろう。
が、定期的にやってくる「入園式」「卒園式」「入学式」「卒業式」などを、親として見守るときの心というのはその立場になってみないとわからない。それが「成人式」を迎えるとなるとどんな気持ちなのだろう。


きっと親でない立場ではまったく想像できないだろう。小説で親役を描こうにもたぶんリアリティにかけた人物像になるだろう。それくらい親か親でないかは大きな違いがあるのだろう。



せっかく人間としてうまれてきたので、そんな文化的ライフステージを歩まずに死ぬのはもったいないと僕個人として感じるところがある。
どんなふうに世界が見えてくるのだろうか。


例えば自分の仕事のことは自分が一番わかっているだろう。だから今の仕事について物語を書くことができる。しかし現場のおっさんのキャラクターは描けない。
そういう、いろんな立場の人を知りたい。その中の今の自分ではもっとも想像できない立場として親というのがあるのだろう。



いろんな人間を知った先で私はなにをしたいんだろうか。
知的好奇心で動いているが、知ってどうしたいんだろう。
例えばそれが未知の大陸の発見とかなら人類の価値になる。しかし、親だって、現場の人だって世の中に無限にいるわけだし、それを例えば文字化した人だっていっぱいいる。


知ることの先で発信したいんだろうけど、それが何のためなのかわからない。
いや、知るというより体験したいのほうが正しい。「親」という立場を体験したい。「現場」の人を体験したい。
そこから見える世界というのは今の僕の見えている世界とはまったくの別物だろう。


そうやった先で世界の正体の言語化をはかりたいのか。社会を言語化したいのか。
そう考えると、「親」というステップは必須である。
遺伝子を残すという非常に動物的な形でありながら、社会に飲まれていく非常に人間らしい立ち位置でもある。



もちろん、そんな好奇心だけで親になるわけにはいかない。
もう少し腰が落ち着いてきたら考えるべきだろうな。


結婚から話がズレてしまった。「結婚=親になる」というわけでもないからな。
そういう意味では、夫婦になるというのが一番想像できないのかもね。