〈128.鬼とラベリングの話〉
読者の方々は、豆をまいただろうか。私は実家に帰り、恵方巻きを食べごろごろしただけだ。鬼好きの私は豆を撒かず、姉と母に任せて犬と遊んでいた。
年に一度唯一鬼に注目が若干集まる日だ。といっても、赤と青の鬼のお面をかぶったり、そういうコスチュームを身につける程度でそれ以上の注目は浴びないのだろう。もし、調べた方がいたのなら種類や色なども豊富だということに驚いたのではないのだろうか。
そして僕は彼らの起源と今に至るまでの歴史が好きなのだ。
鬼といっても鬼神という言葉があるように、完全悪スタートではない。神様でもあったけど、時代によって悪者になったり良き者になったりと人間の都合でコロコロとサイドチェンジをしてきた妖怪であり神様だ。
起源を辿ればおそらく神様の一種なのだろう。そして神様の起源といえばおそらくアニミズムだろう。自然物には神様が宿る、八百万の神、と言われるより前の話なのだろうか。ここらへんは残念ながら趣味程度の知識なので眉唾でね。
なんで人間はそんなものをつくりだしたのか。
おそらく、それはいまのレッテルとかラベルに近いんだと勝手に僕は考える。
雷が落ちる。いまでは原理を調べれば誰でもわかる。しかし科学がないときは当然何が何だかわからず、突然轟音とともに激しく光が空をかける。恐ろしいこの現象を、とりあえず神様が起こっている、ということにすれば、祈りを捧げる、供物を捧げるといった対抗策を打ち出すことができる。そうすれば心が休まる。そうして雷様、雷神様と言われるようになる初期の神的存在が誕生したのではないだろうか。
そういうふうに、怖いものに名前をつけて、対抗策を考えてることで、精神的安定を図ってきたんだろう。
というふうに僕は空想する。
だから、怖いもの、未知なもの、不快なものに名前をつけて落ち着かせるのは人間の性質であり、種の保存の方法の一つなんだろう。固定観念とか偏見、思い込みっていうのもある程度は仕方ない。だが、ちゃんと正すところまでしないとだめなの。
人間は、自分の知らないことにとりあえず名前をつけて心の安らぎを得る生き物なんだと、この日になると考える。
鬼とか妖怪っていう方々は人間の安心のために勝手に作られた、いわばロボットとかアンドロイドみたいなものだ。崇め奉られてたと思ったら豆を投げられて。
ちょっとは鬼にも優しくしてもいいんじゃないかしら。
おにだって、いろいろあるのに…。