ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈205.言葉の料理〉

今日はリアルで会話をしていない。電話で話をしてくれた人はいたが、顔を合わせての話はしていない。別に珍しくもない。面倒くさがりの一人暮らしとなると、こういう日も多くなる。ひとりなのだ。

 

こういう時の気分というのは言葉にできない。無理やりしようとすれば、寂しいとか侘しいとか悲しいとか、そういう形容詞になる。でも、そのどれでもあり、そのどれでもない。気分というのはそういうものだ。

一生懸命捏ねた生地を、型にはめて形を作るみたい。型以外のところはゴミ箱に捨てられてしまう。言葉というのはそういう暴力的な面もある。そう感じる時もある。

 

だが、同時に受取手次第である。いわゆる解釈次第、というコト。丸い形にくり抜かれたクッキーを、受け取った人によっては面白いと思うかもしれないし、どこにも棘のない平和を示すと思うかもしれない。もしかすると爆弾を模しているとして不快になるかもしれない。言葉の可能性は無限なんだなあ。

 

私の一人暮らしの気持ちの型はまだ見つけることができていない。悲しかったり、惨めだったりすることもあるけども、同時に楽しかったり、癒しであったりもする。だから無理やり言葉にはできないし、したくない。解釈する必要がまだない。

 

そうなると、音楽、絵。そういう三次手段に手を出したくなる。少し前に水墨画をやってみたり、実家からキーボードを取り寄せたのもおんなじだ。気持ちっていう一次のものを、言葉っていう二次手段では不足しているから、次のものと一緒に表現するともっと伝えられる気がする。

 

じゃあもっと根源的な問いがある。なんで表現したいのか。一人で食べればいいじゃないか。誰とも一緒にせず、ひとりの食卓で、ひとりで作った生地で、ひとりで飲み込めばいいじゃないか。

確かにそうなのだ。僕の気持ち、僕の目っていうのを無理やり誰かに伝えようとするから、もやもやする。最初からそんなこと、しなければいいじゃない。

 

だけどもさ。ひとりで食べるより、誰かと一緒に食べる方がおいしいじゃない。幸せじゃない。

 

そうなると、食事がどうとか関係なくなるじゃない。コンビニ弁当だろうが、高級フランス料理だろうが、関係ないじゃない。

誰と食べるか、そっちのが大事じゃない。

 

そんなとき、ごはんがあると人と人の架け橋になれる。ごはんという言い訳を作って、時間を一緒に過ごすことができる。

 

そんなごはんみたいな、大事じゃないけどやっぱり大事な役割を果たせるようになりたい。だから僕は僕の寂しい夜を誰かのご飯になったら嬉しいと思う。そのために今日も惨めで貧しく文字にしてみる。

 

ここんところちゃんと書いてなかったから、真面目にやってみました。サボるっていうのは後ろ髪が引かれるところあるけども、書いてみると書いてみたで不安定なところがある。200を超えてもこんなんだもの、いったいいくつになったら自信を持って投稿ボタンを押せるのだろう。ホウチガに、もうしばらくお付き合いお願いします…。