10月12日。
セネガルに1ヶ月ほどいた日本人の方がひとり帰られた。そのひとは、不動産をいじりながらも、お仕事をして、転職して、個人的にワークショップ開いてるような、僕にはできない容量を有しているひとだった。なのに僕らと話しているときはまるで一個か二個くらい年上なだけのニイチャンみたいなひとだった。
こういう出会いはなかなか不思議なもんだと思う。僕が大学院を選ばなければ、西アフリカを選ばなければ、セネガルを選ばなければ、ダカールにいなければ、できなかった出会いである。ほかのいろんな可能性も含めれば天文学的な数字の中で出会ったひとだ。
その人に限らずすべてがその偶然で出来上がってるんだろうな。つまり、偶然が噛み合わなかったひともたくさんいるんだと同時に思う。
ちょっと電車で隣に座った人だけども、なんかしら偶然があればもしかしたら生涯の友になっていたかもしれない。でも今回の人生ではその偶然は起きなかっただけなのだ。たまたまね。
セネガルに来るとより思うようになった。
僕がたまたま両親のもとに生まれ、意識を持つことになった。なんでかわからないけど、僕はセネガルでは生まれなかった。セネガルに生まれてたら、もしかしたらずっとセネガル内、ダカール内にとどまったかもしれない。だけども僕は群馬に生まれた。
群馬に生まれたとしても、群馬を出ることなく土に還ったかもしれない。そこには否定とか肯定とか、そういう感情はない。たまたま今回の人生では京都に住むことになって、いつのまにかセネガルにいることになっている。
大学院生として研究者としてセネガルに来た今、やっぱりおんなじように無限にこの先は広がっている。明日帰国するという無計画な未来から永遠にセネガルにとどまるというこれまた無計画な未来まで。大学院修士課程中退から博士課程修了まで。そのすべてにまた選択があり、出会いがあって、別れがあるんだろう。
日本では台風が猛威をふるっていると聞く。地元の川は決壊したのもあるらしい。
天災は抵抗できるものじゃないからこそ、安全を願うことしかできない。どうか被害が小さくなることを祈ってます。そして、そのそれぞれが持つ多くの選択肢がなくならないことを祈ります。生きてほしい。
すべてが偶然だけども、力で引き寄せる偶然っていうのもあると思う。逃げるのもまた力だろうし。別れがあるからこそナンタラカンタラっていうけども、やっぱり別れない選択があるなら別れないほうがいいに決まってるさ。さみしいもん。
元気に楽しく一所懸命生きていきましょうね。