11月23日。
弱気な話をする。この3ヶ月でもっとも弱気だ。仕方ない。これもまた現実として認めなければならない。
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今日という日はセネガルに来て最も現実逃避したい日だと思った。そして実際そうなった。
昨日から続く弱い腹痛が未だ続く。悪化しても嫌なので部屋に引き籠ることにした。
いまから思えばその引き籠り決定の理由は腹痛じゃない別のところにあるのだろう。そして腹痛もなかば治らないよう想っていたのかもしれない。
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現実逃避したい理由。
そのもっともは、結局コミュニケーションが満足にとれないことだ。多少の挨拶とか、簡単な情報を話すことはできても、仲を深めるような話はできない。小粋なジョークも挟めない。
寡黙な外国人としか振る舞うことができなければ、そりゃあ仲良くなるのは難しい。
仲良くなれなければ、勝手に疎外感を感じる。相手は私の存在のことなんて考えてないだろう。それが疎外感になる。日本語であれば初対面の人でも色々話をしたり逆に聞かせてもらったり、なんだかんだしているうちに仲良くなれる。というのも言葉があるからだ。
そうしていくと、相手の思考回路に私という存在を入れ込むことができる。これが良くも悪くも自分の存在証明として自分に返ってくる。
相手がなにか私に対して感情を抱くようになり、それが正の感情でも負の感情でももたらしたのは私だ。その感情に対する反応が可能になる。
ところがコミュニケーションが取れない今、相手の思考回路に私という存在を入れ込むことはできない。できたとしてもわずかな時間だ。すぐに別の豊かな情報によってかき消される。
結果として自分の存在証明をできるのは、自分自身と話すだけになる。
その環境の中で外に出る勇気がどれほど必要なものか。僕もわからない。ただ、その勇気が今日は欠如していたがために腹が痛くなったのだろう。
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感情としてはなにになるのかわからない。さみしいとも言えるし、悲しいとも言える。悔しいとも言えるし、虚だとも言える。そういう感情を全部ひっくるめて、現実を直視することはできなくなった。
「しんどい」という曖昧な表現がもっとも適している。
後悔してもどうしようもないし、後悔のしようもないのだが、せめてフランス語が話せたら。虚しい願望だけが私を覆い尽くしている。これまでの2ヶ月はいろんな手でごまかしてきた。日本人ひとり、知人友人がいない地方に来た今、もうどうしようもなくなってしまった。
帰国したいかと言ったらそうじゃない。帰国はしたいにはしたいのだが、それじゃあ何にも解決できない。
この心を慰める唯一の方法。話をする、それだけだ。日本語でなく、英語でもなく。フランス語で、ウォロフ語で、彼らの言葉で僕は話がしたい。それでしかこの現実は打ち崩すことができない。
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この感情はセネガル到着1週間後に抱いたものと同じだ。
当時は挨拶もできなければ、買い物もできなかった。それに比べれば大きく成長したものよ。
でも本質的には同じだ。定型文での会話ならオウムだってできるさ。僕はそれを乗り越えることができていない。楽しそうジョークを交えた話を僕は理解できない。あいまいな相槌だけを残して部屋に戻ることしかできない。
いや、本当はもっといろんな選択肢があるのかもしれない。フランス語わからない!ウォロフ語難しい!そう言って、ゆっくりもう一度話してもらうこともあるのかもしれない。
それにもう疲れた。嫌になった。
ネタのオチの解説をさせることほど興醒めなことはない。それを僕は常にしているような気分だ。せっかく楽しげに落とした話のオチを、僕は毎度拾い上げ、これってどういう意味?そうやって聞き続ける。話し手が一番しんどいだろう。そういう思いをさせてないためにも、僕が殻に籠もればなにも起きずに済む。
そういうことになってしまった。
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いまでも当然、窓の外では元気なウォロフ語だろう、言葉が賑やかに交わされている。なにが彼を笑顔にさせているのか、なにが彼を呆れさせているのか。僕にはなにもわからない。表情しかわからない。
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例え、機械が会話の翻訳を完全にできたとしても、この心の壁は残り続けるんだと思う。
壁が立てられ続け、四方を囲まれたらどうなるか。必然引き籠ることになる。
その壁を取り壊すためには、壁を殴り続ける努力と精神力が不可欠だろうよ。
今日の私は完全にその力を失ってしまった。
明日の私は取り戻せるか。
さあ。信じて僕は今日を終わりにする。