ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

MENU

〈437.言葉の話〉

12月9日。

 

言葉が好きでこういう駄文を毎日書いているものの、一方で言葉に恐怖というか嫌悪を感じることも多々ある。

 

 

イメージで言えば、小さいコップにどんどん際限なく水を注ぎ込む。すると、当然コップは小さいので水はどんどん溢れ出ていく。適当なところで止めてみると、注ぎ込んだ水10ℓに対し、コップにはわずか50㎖しか残っていない。

水が僕が表したい気持ちや見てきたことであり、コップが僕の語彙やレトリックなどの表現手段である。

圧倒的に足りない。前にも書いたことがあるが、嬉しいという気持ちを具体的に書いていけばいくほど、それだけじゃないんだけどなぁが増えていく。

だから言葉が怖いし好きになりきれない。

 

 

んなくせなんで言葉が好きでもあるのか。昨日今日の話をさせてくださいな。

 

京都に帰ってすぐに旧友が会ってくれた。たまたま京都に用事があったかららしいが、予定が早く終わって時間を作ってくれたようだ。半年ぶりくらいの再開を喜ぼうとしたらやたら無理して笑ってやがる。ふぅん、どうやら恋の悩みだそうだ。この女ったらしがよ!ちょうどいい。すこしいじめてやろう。コンサルティングをすることになった。

 

今日。同期の研究科の友人と飯に行った。彼はすこし前に帰国していたが、研究へのモチベーションがないらしい。ふぅん、どうやら目標がないようだ。この楽天カードマンがよ!ちょうどいい。適当なこといって泳がしてやろう。コンサルティングをすることになった。

 

 

二日間とも、話をし始めるとあまりよくわからず、ホントに適当な、根も葉もないようなことばかり言って遊んでいた。しかし、その遊びの中で「そういえば…」となにか引っかかりが生まれ、とうとうと語り始める。それにまた適当にひょいひょいとボールを投げ込んでみると、どんどん話が進んでいく。気がつけば2人ともとりあえず心が落ち着くところに落ち着いて、別れることになった。

この不思議な展開は、話すという行為なしではありえない。溢れ出る水をとりあえずどんどんコップに流し込んでみたところ、しっかりするところが来た、といったところだ。

言葉の面白さはここにある。無限に広がるもやもやがガッ!っと型にハマってすっきりする。これが嫌なところでもあるんだけどもね。

 

 

同じ言葉といえども、話し言葉と書き言葉は全然違う。そもそも話すという行為では、表情も声色も身振り手振りも手にとってわかる。たくさんの情報を駆使して溢れ出る水を注ぎ入れることができる。コップだけじゃなくて、下に皿を敷いてみることも、じょうごを使うこともできる。

 

しかし、書き言葉は、ホントに文字だけの勝負なのだ。

この勝負は本当に難しい。ロマンも必要だし、美しさも必要だし、賢さも必要だ。

そのたくさんの能力を駆使して書き言葉が上手くなれば、話し言葉以上に多くの人と話ができるようになる。

いままさにそうでしょう。僕は京都で書いているけど、東京の人も海外の人も、読もうとすれば読むことができる。もしかしたら10年後の人が読むことがあるかもしれない。

うーん。ロマンだ。

僕はまだまだ足りないことが多いから、言葉というのは好きだけど嫌いなのだ。

 

 

古文漢文の美しさに憧れがある。いつかああいう壮大なレトリックの効いた文章を書いてみたいな。書けるようになったら、嫌悪感も恐怖もなくなるのだろうか。

 

という1400字程度のコップには僕の水は溢れてしまっている。

もっとこう、あれだよ!すごいんだよ!言葉とか文字っていうのは!