〈382.僕の感情分析〉
10月15日。
毎日になると、暑いバスも臭う街も砂の道路も無感情になってくる。慣れというのは恐ろしいものだ。いまのうちに忘れないようにひとつ残しておきたい感情を書いておく。
ただ、特定の個人とか集団とか国籍とか、そういう人に対して差別感情はないと断言したい。それができているかは僕自身判断ができず、受け手のみなさんに判断を委ねるしかない。
黒い肌を持つ人たちが大多数を占める国では、黄色い肌をしている我々は超少数派であり、ひとまとまりに見られるのは仕方ない。でも、
"シノワ(中国人)!"
と言われるのは若干嬉しくはない。
問題に思っているのはこの感情だ。
何に対する不機嫌なのだろう。
日本人アイデンティティを持つ私に対して別国籍を指すことに対する憤りなのか。
それとも僕はそもそも中国という国が好きではないのか。
はたまた少数派として扱われること自体を嫌っているのか。
確かに僕は国籍を日本にしているし、言語も一番流暢なのは日本語である。生まれてこの方他の国籍だと認識したことはない。けど、だからといって別国籍に間違われても苛立つことはない。
君は中国から来たの?韓国人?
そう聞かれても別になにも思わない。日本から来ました。そう言っておしまいだ。だから1個目のポイントは不適切だ。
次に僕自身中国を嫌っているのではないかという仮説。それはない、と断言できないのは正直な感情としてある。私は愚かだ。
それはメディアの嫌中報道の影響があるかもしれないし、単純に比較的音を大きくして発音する中国語にびびっているのかもしれない。飛行機の乗り換えで中国を使った時、ちょっとぶつかってめちゃくちゃ怒られたこともあるかもしれない。今の経済情勢として中国の影響力は大きいし、いろんな場面で目覚ましい活躍をしている。そんな彼らに対する嫉妬かしら。
ここまで述べたところでいうのも変だけど、僕はむしろ中国は好きだ。世界史で一番ワクワクしたのは中国の歴史だし、日本の文化も中国から影響をたくさん受けてるからぜひ知りたいとも思う。一人旅を画策して中国語の授業もとったことがある。旅は実現しなかったけど。
確かに怖かった人がいたのは事実だけど、それは中国人が怖いのではなく、たまたまぶつかっちゃった人が怖い人だったというだけだ。日本人でもそれは同じでしょう。個人であり、集団ではない。国籍に帰するのは浅はかと言わざるを得ない。
僕は中国が好きだ。いまのところ直接的に良い思い出を作ることはできてないけども、それは運が悪かっただけだ。それは表面上じゃなくて心から思う。次に行きたいのは中国だし。
最後に、少数派として扱われることへの憤り。おそらくこれが一番当てはまるのではないかと思う。
中国の方が一番アジア勢として数が多いから代表としてシノワが使われるだけで、発話者には少数派に対する優越感があるんだと思う。少数派だから言語ができない、少数派だからこの国について知らないとか。そういう感情が伝わってくる。
学校におけるいじめっ子の感情に近いと思う。"お前はこういう奴だから俺より下だ。"そういう脆い優越性。
そこにあるものも、相手へのレッテル貼りであり、相手への表面的で浅はかな理解しかない。
例えば
シノワ!
じゃなくて、
ジャップ!
だったらどうだろう。やっぱり腹立つ気がする。でもシノワよりも諦めがつくのは、やっぱり国籍アイデンティティのミスがないからかもしれない。
僕は中国が嫌いなんだろうか。そう考えてしまうこともあった。
でも、それは間違いであり、少数派として勝手に見下すあの言い方が嫌いなだけだ。
中国が嫌いなのかと考えてしまったのは、嫌中という概念が世の中に存在するから、その枠に収まりやすいからではないだろうか。
嫌セネガルという概念がなければ、特別セネガルを嫌う感情は生まれない。枠として誕生してしまったものを応用したり利用するのが僕という人間なのだろう。
僕はまだ中国のことを知らなすぎる。それで嫌いになるのは間違っているし、根拠不足だ。それより僕の手元にある情報は魅力的な中国像である。まず、中国に行ってみて、いろいろ直接見聞きしたあとに判断すればよかろう。
少数派への嘲笑を嫌っているのであり、特定の国籍を嫌ってはいない。僕はそれを知りたかった。
とはいえ、中国に行ったからといってそのすべてがわかるわけじゃあないよね。僕が作りだす中国像は、僕にとっての中国であり虚像だ。真の中国を完全に理解するのは不可能だ。
好きかどうかなんて適当なところで諦めて、好きだとしちゃえばいいじゃない。そっちのが楽しいよ。