ホウチガブログ

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〈573.社会学という物語〉

4月23日。

 

自分の話ばかりしてもつまらないので、ここで勉強したことを少し。

 

最近読んだ本で、こういう趣旨の話があった。

「人間はどうも、自分が納得がいく話しか頭に残さないらしい。その納得がいくというのは、自分のなかで物語として成り立つことが条件である。そしてその物語として成り立つためには、その人が得てきた型にはまらないと難しい。」

 

まだ最後まで読めてないので、具体的な書名をあげるのは避けます。もしこれが間違ってたら、あとで修正します。

 

 

「物語として納得がいかないと受け入れない脳味噌、というのに納得がいくのは、僕の中でその型が既にできているからだろう。」

 

そういう無限回廊は置いといて、この前提が正しいとする。

すると、研究で使おうとしている社会学をみるとなかなか議論が難しくなってくる。

 

 

社会学の理論というのは、その理論を打ち立てた人が社会をどういう風にみていたか、切り取っていたか、に拠ってできる。

なので、同じものを見て真逆の理論ができたりするのも珍しくない。

それってつまり、その偉大な社会学者の認識の型にはまったように社会を抜き出しただけで、その型にはまらない部分を排除しただけ。というように考えることもできちゃう。

 

 

例えばの話。

デュルケムという偉大な社会学者がいた。彼は社会というものが実在しており、それが我々個人の行為を決定してるんじゃないかと考えたりこれが社会実在論というやつらしい。

一方でジンメルというこれまた偉大な社会学者もいた。彼は社会というものは実在せず、個人間の人間関係があって、それの集合体として社会と呼ばれるものがあるだけだと考えた。これは形式社会学という考え方になる。

 

この二者は社会のあるなしで真逆なことを言っている。

だけども、それはデュルケムの人生を全く同じように経験すれば社会があるように思え、ジンメルの人生を歩めば個人関係だけだと思える。それだけの話になる。

 

これを突き詰めていくと、すべてのことは確かに存在するといえず、その人にとってあるだけ、それがまたまた共有できるだけ。ということになる。

 

 

おそらくレヴィ=ストロース構造主義とか、ウィトゲンシュタイン言語ゲームとか、シュッツの現象学的社会とか、ブルデューハビトゥスがこれを知る手がかりになると思う。

ここはあくまで自己顕示欲です。研究者っぽいでしょう?

これは手つけず状態なので至急仕入れたい。

 

 

小難しい単語は置いといて話を戻すと、学問をいろいろ考えてみますと、その理論を打ち立てた者にとっては納得のいく物語が出来上がったので発表してみた、ただそれだけなような気がしてくるのです。

 

もちろん、その理論の納得感が人間の過半数を占めたら正しい真理として受け入れられるんでしょう。

 

ただ、その真理らしいものは移りゆくもので、天動説が地動説に替わったように、真理という真理は人間には見つけ出せないんじゃないか。

 

だとしても、あたいは社会学が好きだけどね…。ホレちまったのさ…。

 

 

だからなんだということですが、たとえ偉い人が言ったことでも、保育園に通う子が言ったことでも、自分が納得いったことは、ただ自分の納得がいく型にハマっただけで、真実でも真理でもないかもね、それだけです。

 

自分を信じないのは酷だけども、適度に信じない方が幸せなような気がしてきます。

相手の批判を受け入れる余裕を持とうね。

 

。。

 

オルテガの「大衆の反逆」はオススメです。

いきすぎなところもあるけど、だいぶ現代社会で勉強すべき点がたくさんあるね。あたいは納得しちまったよ。あたいの型にハマったってことだね。

クーリーの鏡に映った自我という用語も面白いです。

これもまた自己顕示欲です。不勉強ながら。

 

社会学の話はまたしたいです。

初心者ですが。

 

 

戦闘力17日目

135(+5)

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練習+2

その他+1

 

その他ってなんだよ。