5月2日。
最近、勉強会で読んでいる人類史に関する本がある。それを読んでいると頻繁に万年単位で話が進む。"火を使い始めたのは""狩猟採集していたのは""穀物を人為的につくりはじめたのは""国家を形成し始めたのは"などなど。
定住がはじまったのも、はじめて国をつくったのも、そのあいだに何千年何万年があったりするらしい。
そう考えると、たかが2000年ごときで人間ができることなんてちゃちなもんだぜ!とか思ってたけど、きっとそうでもないんだろう。
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2000年前とどれくらい違う生活をしているかといえば、国という単位がどれくらい強固になってきたこと、地球が小さくなってきたことがすぐに思いつく。
日本という国が、中央集権国家なったのは古く考えても江戸だろうし、移動手段が発達したのなんてのは明治期だろう。あれ、400年くらいの話だ。2000年前ってなにしてたんだろう?
ぼくの日常にある、開発の成果物は近年なって急激に発展したんだな。二次関数的に、みたいな表現になるんだろうか。たかが2000年かもしれないけど、やっぱすげえや。
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前代未聞の問題が起きた。けども、それも人間にとっては、という話だろう。動物外生命体からしたら火を使い始めたり、農耕を始めたり、蒸気機関を開発したりするのもおなじくらい前代未聞の問題だろう。
2000年間で見ても、人間はよく疫病にいじめられてきたもんだ。
読んでいる本だとたびたび出てくる表現がある。
「飼い慣らしたと思ったら人間が飼い慣らされた」
植物は、自生していたころに比べて人間の世話を受けるようになったら弱くなった、動物も同じく弱くなった、らしい。そうして人間が労働するようになった。
環境を人間の進化に適応・開発させていると思ったら人間が適応させられてた、なんていう奇妙な物語みたいなことが起きてるそうな。
この自粛生活もきっとそうだ。人間が飼い慣らしたと思ってたら、そうでもなかった。それだけなんだろう。
開発してきたのはすごいけど、それだけ特定の植物とか動物とかに飼い慣らされたのかもしれないな。
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宇宙を見つめていると、人間のことの小ささを思い知らされる。そうしてポジティブになれたりする。
歴史を学んでいるとき、同じような感覚に襲われる。氷河を耐え忍び、上様の厳しい取立てを耐え忍び、空襲を耐え忍び。
それに比べたら、いまの「ぼくの」自粛の悩みはまだまだやさしいもんだ。
所詮、ながいながい宇宙物語、人間物語の中の、小さな小さな一点に過ぎない。
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でもきっと、昔から会えないのはつらいって感情はあったろうな。
国家ができる前から人は狩猟の準備のために集まっていたし、国家ができてからはより集住している。
会えなくてつらいってのは、歴史とかミクロマクロとか関係なくつらいんだ。たぶん。
歴史を学んでいたら、なんかどうでもいいや、と思ってしまったけど、きっとそうじゃない。そういうポジティブのなりかたもあっていいけど、どうせなら楽しく乗り越えたい。
はやく日常に戻れるようにいまは非日常を耐え忍ぶことだ。エネルギーを溜めておく時期。
またね、と言ってしまったんだから。会わなきゃいけない。
そう信じなきゃつらいもの。
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戦闘力25日目
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