〈588.客観評価〉
今日は文字にするのが嫌だが仕方ない。
言葉にしない気持ちはないのと同じ。なかったことにするのは報われない。自分だけは認めてやるために文字にする。ただ自分が認識するために。
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学部の卒論に必死になった11月12月。その時とジャンルは同じだ。
どれだけ本を読んだとしても、どれだけ論文を読んだとしても、どれだけパソコンに向き合っても、そんな時間を評価されることはない。評価されるのはそれをアウトプットした紙面の情報それだけだ。
1行のためだけに何日も潰すこともある。そしてその1行はさしていまを持たないことが多い。他人がみたら、そんな苦闘した数日はなしに等しい。
研究っていうのはそういう日々の繰り返しである。
修士論文に挑もうという青二才だから正しくないかもしれない。自分にとっては、である。
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それに耐えうる精神を持っていれば研究者になれると思う。生半可な覚悟じゃできないと思う。いや、むしろ覚悟とかそういう次元の話じゃないかもしれないな。無意識でできるものかもしれない。
論文の1行のための忍耐、それだけじゃない。
研究者が最もすべきじゃないこと、まわりと比較すること、これにも忍耐する必要がある。
たとえ同期が成果を得たとしても、後輩が素晴らしい発表をしても、「ウチはウチ、ソトはソト」である。自分が求めることについて、まわりの進展はなにひとつ関係のないこと。そう割り切れるやつが研究できるやつだ。
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今年は大学入学以来初の脱五月病の年かと思えた。実際にいまもギリギリ耐えていると思われる。
だが、研究活動はどうも厳しい。評価を求めてしまう。
1行のためだけに失った一週間であったり、まわりがどうとかを割り切ろうとしたり、必死に読みにくい100年以上前の資料を読んだりした。
割り切ったつもりだったが、どうもダメらしい。評価されたい。褒めて欲しい。よくがんばったと言われたい。いやよくやったよ。がんばってる。
だが、歯止めがどうも効かなくなったらしい。
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いまの自粛生活というのも耐えかねる原因の一つとも考えられる。
単純に人と話す回数も減ったし、帰属意識が薄れてアイデンティティがよくわからなくなってきたし、なにをするにしても自粛前以上に周囲の情報が気になってしまうらしい。
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さて、まずこれを世の中で自分だけでも認識してあげなくちゃいけないのが嫌なところだ。
文字は大量に追っている事実、それらの行動を評価されたい自分自身。自分で自分を評価するなんて、なんてみっともない恥ずかしいことだろう。しかし、そうでもしないと折れてしまいそうだ!
客観的に見ると、非常に不健全である。
うるせぇそれでもがんばんだよ、と鼓舞する体力がなくなったのも気づいていたはずだ。飯の手抜き加減、野菜の少なさ、外に出る気力のなさ。
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さてどうするか。
このまま過ごせば間違いなくまわりの人も不幸にする。
かといって、気晴らしすれば治るのかといえばそういうことでもない。気晴らしが逃避で終わる。
そうなると、やはり基本的な早寝早起きと野菜の摂取、これが必須である。すべてのもとは健康から。
そして評価されたいという欲求。こいつが非常に面倒くさい。評価をうけるためには自分じゃない人間が必要である。もうその時点で確実生がない。そして評価足り得る成果物を出さなければならない。なにもないのに?土台無理な話だ。
評価されたいという欲求を昇華させるべきだろう。一流のひとたちは、他者に評価を求めるのではなく、自己の評価でドライブをかけるとか聞く。そもそも他人に求める時点で長続きしないエンジンである。
そうなると、研究という果てしない霧の中で歩くことについて、自分で評価するポイントを見つけ出さねばならない。
さて、僕の人生で自己評価で欲求が満たされた経験がどうもない。
そうなると、強い使命感、強烈な目標、それに対する自己評価≒自己点検。これにチェンジしたほうが良さげである。
とは言っても、それがあったらもうこんな悩みなんかないはずだ。後付けの使命感なんてなかなかないわよ。
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つまり、自分の苦労を評価されたい、という欲については現状昇華不可能である。諦めてください。
いま僕が積むべき善行は、早寝早起き健康生活である。
やることやって、おとなしく成果を出しなさい。誰にも迷惑かけるな。赤ちゃんじゃないんだから。
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戦闘力30日目
236(+8)
勉強+5
その他+3
共同ブログで、こんなことを書かないと正気保てないんだから恥ずかしい大人です。