3月3日。
僕は怒られ慣れてない。
怒られるどころか注意すらされるとしばらく引きずる。いままさにそう。
もはや注意というか、今後のために気をつけてください、レベルの指摘でもメンタルが非常に削られる。
なぜ。
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いや、まてよ。
条件があるぞ。
おんなじレベルの注意でも、その人を信頼してるかしてないかがでかいぞ。
先生とかおそらく上司とか、敬う対象の人から言われたときに削られるようになってるぞ。
初対面とかそれに近い人が怒ってきても注意してきても、申し訳ないくらい覚えられない。
事務員の方から"いまレポート出しても受け取りませんよ"、だとホイホイ!で流してしまう。
日頃からこの人のプライベートへの侵入を程度はあれども許しているというのが大事かもしれない。
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それだけじゃないな。迷惑をかけたかどうかも必要な条件だ。
中学生のとき。僕は学校で漫画を読んだ。先生にバレて放課後職員室に呼ばれた。放課後行ってみると、先生はニヤニヤしながら返してくれた。迷惑をかけてないんだ。
そうなるとそれほど削られなかった。
いや、ちょっとまてよ。
この例では確かにそう思ったけど、当時漫画を没収された直後のことを考える。
俺はめちゃめちゃ削られたな?
これはたぶん、先生からの評価がめちゃめちゃ下がると仮定したからだな。心臓バクバクの放課後まで削られ放題だったな。
それが笑って返却ということによって評価下がってねぇと判断できたから持ち直したな?
なるほど、迷惑かけたかどうかじゃないかもしれない。自分の評価が下がるかどうか、これが大事なのかもしれない。
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なるほどそう考えると、親しい人からの些細な指摘でさえもずっと執着してしまう心があることがわかる。
それはないわ〜wwwっていう笑いになった指摘でさえも、その場では笑いつつも数ヶ月後にもう一回評価を聞き直すことがある。気になって仕方ねぇのよ。
なるほどそうなると僕は怒られた怒られないよりも、その人からどう思われたかに重きを置くのかもしれない。
これもまた主語が自分になっているって結論になる。
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それじゃあさらに考えを深める必要がある。
なんで主語が自分じゃダメなのか。
先日の話に繋げると、主語が私の話はつまらない。なんでつまらないのか、いやつまらないのはなぜダメか。
これだ。
崇高な分析をすれば、主語が私の話はつまらない、そのつまらないというのは相手の時間を無駄にしてしまっている。そしてなにより、相手のことを考えずに行動している自分が浮き彫りになる。
こりゃあかんぜよ。自己中は身を滅ぼすぞ。
低俗な分析をすれば、主語が私でつまらない話をする人。そういうふうに自分の評価がさらに下がることになる。
自己中心の価値観を持っていると、悪いサイクルに入る。
注意される
→クソやろうというレッテルを貼られたと考える
→この思考は自己中だと気づく
→自己中な人間はつまらないと考えられる、と考える
→というこの思考にも自己中性を気づく
...
というように。
自己中心性を持つ人が周りの気遣いを発動させなければどこまでもめでたい人だ。
ところがぎっちょんちょん、自己中心性を持つ人が一度他人に気を遣う(遣った自分を評価する)となると、自分は自己中だったのか。そういうことで永遠に続く沼に入る。
これあかんな。
自己中のみんな。こうなってしまったら、甘いものを食べよう。そして忘れるんだ。
怒られたことも、怒られて評価を気にしたことも、気にしたことを気づいたことも。全部クレープに包んで飲み込んでしまおう。
スーパーに行ってきます。