〈617.数字と魂〉
6月6日。
中学生高校生の頃、親に散々言われたことがあります。スキマ時間をどれだけなにに使うか。二つ上の姉がいるので、彼女の真面目な行動に比べて僕がゲームばかりしていたのでそういうことを言ってきたのでしょう。
当時はめんどくせえと思いながらも、どこにいくにしても英単語帳は持ち歩くことにしてました。
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高校生当時は、東大に合格した人といったら人生の勝者だと思っていたものです。なので、合格した人々がどんな勉強の仕方をしていたのかには興味がありました。
そんななかでいまでも覚えているのですが、1日の勉強時間は2-3時間しか取れません、という人がいたことだ。
僕は12時間とか勉強机に向かうことが正義だと考えてましたから、驚きというかむしろ妬みというか。短時間でも天才は天才だとむかっ腹をたてたものです。
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いまおもえば、勉強時間なんてなんとも評価できないものだと思うわけです。
事実ぼくは一日中机に向かう日々でしたが、受験には失敗しましたし、それに比べたら1/6くらいの勉強時間で大学院に受かってしまったんだもの。時間というのは簡単に裏切ってくる。
じゃああの2-3時間勉強の東大生と長時間の勉強の僕はなにが違ったのか。スキマ時間の使い方なわけです。
東大生は結局、まとまった勉強時間は取れなくても電車やらなんやらの時間をすべて暗記に費やしていたそうな。
スキマ時間の使い方、という言葉で表しているのは、単純にスキマを無駄にするなという教訓ではなく、スキマ時間すら勉強に当てるほどの情熱があれぼ時間はそれほど意味をなさないということなんでしょう。
スキマ時間という手段はたまたまであって、勉強したい・合格したいという目的がはっきりしていること、熱意が溢れていることが必要だったんでしょう。
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僕がバイトやらゲームやらしながらだったのに大学院に受かってしまったのは、もちろん大学入試に比べて試験内容が絞られているというのもあるでしょうが、大学入学以上に大学院に入学する熱意があったからなんだろうな。スキマを使いたいというそれだけの熱意があっただけで。
というサクセスストーリーは置いといて、結局数値化しにくいところに大事なものはあったりするような気がしてくるのです。
いま読んでいる研究書でも、数字だとごまかせるポイントでもフィールドに住む人々の生活はごまかせない、そういう話があったりするわけです。
そこに魂が宿っていたりするのでしょう。
もちろん、数字に魂が宿ることも多々あるでしょう。数字ばかり追っかけていたら、手段と目的を見失いかねない。そういうことなのです。
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戦闘力58日目
473(+4)
勉強+3
その他+1
熱意が本物だったなら、おそらく数字にも熱意が「結果的に」現れてくるだろう。熱意とか魂とか、そういうやつってもっとわかりやすくなりませんかね。