3月24日。
正式に修士号をいただいた。
長くて短い2年間だった。1番お世話になった先輩とはこれが最後の日だったかもしれない。仲良くしてくれた同期とも飲みに行くのはしばらくないだろう。2週間くらい前にも同じような気持ちになっていたけど、今日はなおのことだ。
高校の頃の憧れだった京都生活も、それから6年くらい経って完全に終わった。これからは京都にほぼいかなくなる。日常の土地が思い出の地になる。
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今日の式典にいたほとんどの人は4月からの身分が確定しているだろう。しかし私は学生身分ではある一方で学生としての活動はしなくなる。なんともちゅうぶらりんな人間になる。前例があるだけまだ心の居所があるけども、それでも世間から大きくズレるわけだ。
はやいところ落ち着いたアイデンティティがほしいな。
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総長からの言葉もよく覚えていない。野口英世の話をしていたような、社会の中核を担うように頑張れとか、言っていたけど。それよりも我々の大学院で修士・博士はこれまで8万人って言う数字のインパクトがでかかった。
結構いるんだな。それほどレアな存在でもない。日本人口の0.08%。もちろん留学生含めてだからこれよりは小さいけども。一万人いたら1人は修士・博士を持った僕の先輩がいるわけじゃん。ちょっと大きい駅なら会う確率けっこうあるでな。
僕の大学以外の修士博士も含めたら結構いるぜ。なんだよレアな人間じゃあないのか。
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それよりレア感を出すためにはどうしよう。
身長170cm以下の人。これは減ったんじゃないか?いや、減ったところで自慢にならない。自慢になる減らし方をしなくちゃ。
群馬県出身の人。減っただろうけど、だからなんだ。愛県心あってもそういうことじゃない。
特殊なスキル×特殊なスキルっていうのはそういうことだ。
別に修士号をもってるところで何にもならない。それをどういうオリジナリティをもって活かすかが必要なわけだ。
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社会の中核を担うって言っても、ただ社会に出たらそれで中核になるわけじゃないのは当然。
どうやって中核になるのかというと、これまでの努力で得たスキルをそれぞれのコミュニティで得るスキルと掛け合わせるかになるわけだ。
その前提になる努力を社会的に認めるのが今日もらった賞状であって、その賞状自体は名誉なことだけど何も生み出せない。
つまり、結局社会に出てもゼロスタートだ。仮に今日もらった賞状が×3だとしても、一年目は0×3=0。
そこから0を育てるのはこれまでの努力じゃなくてこれからの努力になるわけだ。それで得た努力が×2よりも結果を得られるようになる。
そういうことだろう?総長よ。
思い出に浸ろうと思ったらそうじゃなくなったよ。