4月26日。
群馬の夜はすごく良い。基本的に風が強い時期なので寒さはしんどいけども、おかげで月が綺麗に見える。明日か明後日あたり満月になるだろう、今日はちょびっと欠けたくらいのそれはそれでいとおかしな月だった。
やっぱ空が広いっていいな。ある程度畑がある場所の方が好きかもしれない。
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前、友人と飯に行くと不思議な問いを向けられた。世界で1番好きな場所はどこだ。
どこでしょう。その友人はそれまでに、カフェの一角だったり、トイレだったり、自室だったりを答えとしてもらってきたらしい。
僕はやっぱり夜の群馬の月の美しさだと思った。実家のまわりの畑道から見る月っていいもんだ。自分の部屋から眺める月もそれはそれでいい。
あとは、ケニアの高地から眺める何もないサバンナというか草っ原というか、あれもよかった。地球って丸いんだなあと。
こう答えていくと自分が大きいものが好きだとわかった。確かに京都の古寺も月も川も良かったけども、広い土地が好きだ。京都は京都でも北に登った福知山のほうが好きだな。
それはやっぱり生まれ育った環境がビルのない畑ばかりの中だからかもしれない。
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じゃあ逆に、都会で育つとビルがないことを嘆くのだろうか。都会育ちの人とそういう話をしたことがないからわからない。電車の音が聞こえないのは逆に静かすぎて違和感があるものなのだろうか。あるいは歩いてすぐに商店街がないのは不便だと思うのだろうか。日本だけでもこんなに違うのに、国が違ったらもっとだろう。
こんなにゴミがないのは落ち着かない、車が通らなすぎて落ち着かない、ネズミがいないのは落ち着かない、青い海がないのは落ち着かない、原っぱがないのは落ち着かない、動物の声が聞こえないのは落ち着かないなどなど。
だからなんだという話だけども、なんでそういう違いって生まれるんだろう。そういう違いって何年ぐらいしたら慣れてくるものなのだろう。ある種のカルチャーショックはなぜ生まれるのか、どうやって乗り越えるのか。そういうことかもしれない。
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自分が都会に出た時のことを考えると、そんなこと気にしていられなかったというのが本音だろう。すべてが慣れないことだった。
カルチャーショックってそういうもんだろうな。すべてがわからないなかで開き直れるかどうかだと思う。
都会に出て綺麗な月が見れなくても、代わりに夜景が見れればそれでええやんって思えたら勝ちなのかもしれない。
それで実家にちょろっと帰ってきて、懐かしむくらいがいいのかしら。