12月28日。
結局僕は、どこまでいってもエゴイストであるようだ。それはもう否定するとか肯定するとかそういうことじゃあなくて。
ただそうあるという状態の話である。
何をしたって気になるのは僕という人間であるようだ。
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人にやさしくあれと育てられた。おかげで人様がどんな気持ちなのかを推測する能力はなかなかだろう。
だけどもその根本には、相手にとって僕という人間がどう認識されているのかが全てである。
こんな人間になりたいなぁ!と思って24歳になってしまったが、それもやっぱりそういう理想的な人間として認識されたいという話である。
親からの愛は十二分に受けたと思うけど、結局承認欲求がどこまでも足りていないようだ。
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大学の頃は、これは良くない、自己承認欲求を抱くのは幼稚な証拠である!そう思ってひたすらに自分を殺そうとした。
一時の聖人にはなれるだろうが、そんなのやっぱり疲れる。
というか、そんなのあんまり大事じゃない。
結局これも、自分がどうあるかというエゴな話をしているので堂々巡りである。
考えるべきは、目の前にいる相手との関係性であるぞ。
その点で言えば、初歩的な自己中心性は取り除かれたのかもしれない。
自分は聖人でもなければ立派な大人でもないぞと諦めがついた。
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墓参りというのはとことんエゴイストな行動である。
墓場にあるのはよくて骨の入った箱であり、そこに命はない。なのに一人で話しかけているような気がしてしまっている。
相手から返事が来るわけでもないのに、いつまでもなにかぼそぼそと独り言を楽しんでいる。
とことん自己中心的な行動である。
心の底から墓石に亡くなった人の魂があると考えているのであれば話は別だが、何年も何年も同じ墓場で独り言を楽しむ。それはもはや相手のためではなく、その時間が自分にとって好きだからだろう。
そうなんです。僕は友人の墓前で独り言を言うのが好きで仕方ないのだろう。
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これまでの墓参りの時には贖罪の気持ちもあった。
今もゼロではないけども、だまって俺の話を聞いてくれているような。なにか偉い人にでもなったかのような。
エゴイストである。誰も得をしないし損害も被らない、エコなエゴである。
僕はなんの話をしているんだい?
年末だからって羽を伸ばしすぎるなよ。