ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1202.文化の習得〉

1月11日。

 

ふと寝る前に気が付いたことがあった。
僕はアフリカにトータルで半年満たないくらい滞在して、英語なりウォロフ語なりを少しばかりしゃべれるようになった。
実際に生活をしても、まあ食に苦労することもなかったし、ある程度の友達をつくれたと思っている。
だいぶ入り込んじまったなあなんて思ってる節もある。

しかし、日本に来てくれている外国の方を見ているとどうなんだろう。
やっぱり外国の人は外国の人としてわかる。ハーフの日本育ちの人と外国で育った人は違うんだから肌の色とか外見の問題じゃないところで「日本慣れ」してるかどうかなんとなく察してしまう。
きっと僕も慣れたようで慣れてなかったんだと思う。

 

 

例えば簡単な例でいえば、箸をうまく使えてなければ海外から来たのだろうと思う。
列に並ばないor並ぶ場所がわかっていないと、そうなのかなと思う。

もちろん、日本に慣れている人じゃなくてもそうなることも多いだろうけど。
そういう行動っていうのは「文化の体得化」ができていないからだと思う。

逆に僕の場合でいえば、セネガルでの食事の方法はわかったけども、店でどういう風に待つのが正しいのかわかってなかったりもする。
正解は、それは自分の飯だと主張することかもしれないが、日本社会慣れしている僕はお行儀よく待っていることが正解だと思っている。それは店員側からすると、主張してもらえなければ、どこに運ぶものなのかわからない、という文化で発生していることなのかもしれない。

つまるところ、海外生活を送って、その社会に慣れたよと主張するのであれば、言語習得と同じように文化習得が必要なのだろうと思った次第であります。

 

 

文化習得は、箸を使うような技術的なものも含まれるだろうけども、それ以上に「行間を理解できるかどうか」が大きいと思う。バスの待ち方、電車の乗り方、他人との接し方などなど。

もっと身近な例でいえば、慣れていない店でのふるまいを習得するようなモノだと思う。
僕はラーメン屋でのふるまいは大抵の場合間違いなくできるだろうけど、高級フレンチでのふるまいはさっぱりである。スタバに慣れたからなにも考えることなく使えるけども、慣れてない高校生のうちは注文することが怖かったりする。

つまり、この「アウトサイダー」な感覚をなくすことが文化の習得の要件だと思われる。

 

 

もちろん、それができないからなんだという話ではある。
そんなので軽蔑するのは人種主義的で時代錯誤だというのはわかる。
ただ、一度「アウトサイダー」だと認識されてしまうと、仲間だと認識されにくくなっていまう。
大学院での研究ではそれが致命的だった。ほしい情報ももらえなくなるし、仲間になって始めれ得られる情報もある。
それはもちろん、人間の信頼関係という点では「アウトサイダー」かどうかは関係ないんだけども。
アウトサイダー」でスタートしてしまうと、ずっとゲスト扱いであり、仲間になることはできなかった。

長々と話した。
つまりは、いかに文化を習得できるのか。これが生活者としては非常に重要だということです。