ホウチガブログ

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〈1292.ネットとリアルと社会〉

4月11日。


最近ということでもないのだろうが、ネットの誹謗中傷が法的に裁かれたり、情報開示したりとかでなんだかんだという話題をよく見る。
ネットという限られていた世界の話が、万人に広がった現代だからこそ起こりうる罪の話である。
しかし、言葉が裁かれている話題である。興味がないわけでもない。


例えば、ひと昔前であれば、領主の文句を言ったら罪に問われたりしたけれど、それとはまた違う。一般市民だれでも同じ権力を持っている。
これは誹謗中傷で自死を選ぶ問題が発生しているからこそだろう。
なんとも言えない時代になってしまった。



めちゃくちゃ問題を遠くから見ていると、とても規模の小さい話に思える。
所詮は顔は見えない相手の、名前もわからない無責任な発言だ。
ひと昔前の人間であれば、そんなの無視すればいいじゃないか!と一蹴するだろう。
それの破壊力が大きくなってしまっている。
一日のかなりの時間を液晶に向かうようになった。日中の仕事がパソコンを使わない人でも、帰宅すればスマホがあることが多い。


そんな液晶の先の世界にあった自分の居場所が奪われてしまうし、否定される。
これはリアルな自分の居場所がないようにも感じ取れるようになっているようだ。


逆に考えれば、リアルで居場所がなければネット社会に逃げられる時代になったわけだ。
村八分をくらっても、ネットであれば大統領かもしれない。ネットで村八分をくらっても、リアルで幸せであることを忘れてしまうのかもしれない。
1人暮らしだとなおさらだろうな。



最近話題のメタバースという言葉。
説明するのは難しいけれど、ネット社会の3D空間のようなものだという認識でいいだろう。
リアルな自分を操作しながら、ネットの社会での生活を満喫しようというわけだ。


リアルで苦しくても、メタバース上での幸せが期待できる。
もちろん逆の可能性も大きくなる。メタバース上で苦しくなれば、現実に逃げてくることになる。その逃げ場であるリアルが苦しければ、どこにも逃げ場がない危険な状態ではある。
いずれにしても、生きる世界を複数持っているのが望ましいのだろうさ。



しかしまあ、被害者側の視点でどうやって逃げようかと考えてはいるけれど、そもそもなんでそんなところで加害者が生まれるのかという話だ。
しょうもない人間だぜ。顔も見えない、名乗りもしない、無責任な発言しかできない。悪いこととわかってやってるわけでしょう。
そういう人は、どこかで抑圧されてストレスがたまっているのだろう。それをそこに吐き出そうということになるのだろう。
なんともみじめである。抑圧された結果、他者を同じ抑圧状態にすることで自分はマシだと思おうというのだ。
そりゃあ、抑圧もされるわ。


こういう加害者も被害者も、ひと昔前だったらどうしていたのだろう。
例えば江戸時代だったら。
想像できないな。小さいコミュニティしかないから、そこで自ら苦しい状況に追い込むような性格だと死ぬような気がするな。
まわりから助けが得られないわけだもんな。


となると、ネットの問題が出てきたのは、社会の変化のせいだというのだろうか。



なにはともあれ、どんな世の中になっても、色んな自分を使い分けられるほうが生き残る確率があがりそうだ。
リアルでも、ネットでも、別の職場でも、地元でも、アカデミックでも。
1人の自分が死んでも、他の自分は生きているような。そういう柔軟な生き方ができるようになったとも捉えられるんじゃないかしら。
そうとらえたほうが、きっと生きやすいだろうさ。