ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈539.ワニ〉

考えていたけども昨日書けなくて、今日も夜になってしまった。

いままでもなんどかサボりかけてたけど、今回はサボりというか。どうしたらいいかわからないっていうか。

 

みんな知ってる。ワニの話。

 

 

100日後に死ぬワニ。

ほんとに死んじゃった。なんの前触れもなく。

唐突に。

強引すぎじゃね?っていうコメントに対して、死は強引だとするコメントがあった。

強引なんだ。死ぬってのは。

 

 

このワニ現象。

文章じゃなくて、まんが、イラストだからこそできたことだと思った。たぶん、文章でも可能だけどこれほどのインパクトを出せるのはイラストなんだと思う。

文字じゃなくて映像。解釈の幅が文字よりも出せる部分があると思った。説明を必要としない。

 

 

昨日の夜、友人の墓に行った。いつもみたいに座り込んで、整理がつかない包みを開いた。

 

「友人に食わせてもらってますもんね。」

今日の生放送のとき、コメントで流れていった。

わにを書き続けたきくちさんは友を交通事故で失った過去を持っているそうだ。それが題材で今回の話を書いたそう。

それをもとに話題になって経済がまわりはじめた。

皮肉なのか事実を述べただけなのか。

「友人に食わせてもらってますもんね」

僕の長年の問いがあった。昨夜友人に聞いたのもそのことだ。

 

 

枯れかけた花があった。まだきれいな色をしているところもあった。冷めたホットコーヒーの缶が置かれていた。

数日前にいろんな人がここにきて。手を合わせただろう。

 

僕はそういうひとたちと一緒に手を合わせちゃいけないと勝手に思っている。彼にちゃんと感謝を伝えなかった。

1日だけでいいから話をしたい。

 

この悔いは、創作物として形作ってしまっていいのか。それで冥福を祈ったことにして、苦しみから解き放たれようとしてるんじゃないか。

 

 

日本中の人たちが友人をなくした経験に100日後に辿り着き、その悲しみに触れ、ワニを通して友人のご冥福を祈った。

そういうツイートもあった。

 

きくちさんが考えたこのおはなしは本当に素晴らしかった。こういう手向けの言葉、ならぬ手向けの作品。きっとワニさんは喜んでいるだろう。

 

つくりたいけど、つくる資格があるのか。なんでつくりたいのか。

ダメだった僕を、彼から許しを請いたいだけなのか。二度とできない感謝を伝えたいだけなのか。

 

 

僕は大きな後悔を持って死ぬことになる。罪とも言える。そして罪に対する罰として、苦しんで生きていくことが与えられたようにも思えてくる。もうこれ以上苦しい思いをしたくない。

罪人がすべきことは贖罪か。いま手元にあることを大切にしなくちゃならない。したい。失いたくない。

 

 

死は唐突に強引なのだ。

贖罪として、やっぱりしたいことがある。

彼のために、僕のために。

〈538.時間の壁がモロい〉

かまいたちの漫才が好きで好きで仕方ない。

そのひとつに、自慢ごとについての漫才がある。M-1でのネタらしい。

 

ボケの山内さんが、自慢ごととして"映画のトトロを見ていないこと"を取り上げる。

いや、そんなん自慢ごとなってない!濱家さんのツッコミにも動じない。

 

他の自慢ごとはいまから頑張ればマスターできる。でも、トトロを見てないことは「おいつけない。なぜなら、時間という壁に守られちゃっているから。」

こういう漫才。言い回しすごいね。

 

 

この時間という壁に守られちゃっている、というワード。面白ポイントだが、同時に僕に刺さった。

 

投稿数538という壁。一応にも壁を築き上げてしまっていたようだ。

そうすると、他の人がどんなもんか目についてしまう。他の人はどんなもんかしら。あたいすごいことやっちゃってるのかしら。なんて。

 

僕らより先にブログを始めた人は何千何万といて、ちょろちょろと毎日投稿の人もいる。毎日投稿をしてなくても、ひとつひとつをしっかり書いていて、内容こってりなのが1000ほど溜まっているブログもある。

 

僕の538日というのは、友人にはよく褒められるけども、特筆すべき点ではないんだなぁ。何千日も書いている人の時間という壁を乗り越えることはできない。追いつけないし追いつかない、平行線のままだ。内容こってりの方とはそもそも土俵に上がれていない。

 

 

3月も後半になる。

友人たちはまたいろいろな進展を見せてくる。

入社した会社を辞めて海外に出る人。新入社員として理想を持って働き始める人。2年目をもう時期迎え、先輩としての社会人生活をスタートする人。イラストレーターとして遂に会社から声をかけられた人。

 

僕はいつまでぼんやりとした700-1000字くらいを重ねていくのだろうか。意味はあるのか。もっと濃くしないと意味ないかな。

 

もともとはいろんな思いがあってホウチガを始めたはずだった。のにね。

 

 

一年半はまだまだなのは知ってるよ。ましてや数回の試行じゃ少なすぎることも知ってる。

 

友人は言ってくれた。

トライし続ければあとは運命に身を任せるんだよ。

 

あとどれくらい重ねれば美しい風景を見渡せるのだろう。

どれくらいトライし続ければ壁から風が抜けてくれるんだろう。

まだまだなのは知ってるさ。知ってるけども。手応えもなにもないとわからないよ。291の頃となにも変わってないや。

 

 

岡崎体育さんのライブに行った時も、東山魁夷の絵を見に行った時も、ナポリの男たちの動画を見た時も、糸井さんの文章を読んだ時も、メイドインアビスを観た時も、ドラゴンクエストをした時も。

悔しくて仕方ない。いつになったらその世界に僕は行けるの。生きているうちにできるの?

 

 

僕はまだ22年という時間しかまとっていない。やんなきゃいけないことをまだやりきってないんだから、報われるにはまだはやい。これからよ。

しかしだな。くやしいもんはくやしいんだ。かなしいんだから仕方ない。そもそも俺だけの人生じゃなくなっちまったんだかんな。焦りもあるわよ。

 

そのときになったらさ、538の何倍の時間の壁に守られているのかしらね!

楽しみで仕方ないわね!

 

「努力が必ず報われる」のは「報われるまで続けた努力」だけが努力だとされるからなんだろう!

じゃあ538は努力になるわけだ。

〈537.ゾーン状態について〉

3月18日。

 

スポーツをしている人でなくても聞いたことがあると思う。ゾーンという状態。

あれに昨日の試合で入った瞬間があった。

 

そのゾーンに入ってる時の気持ちを文字起こしする。

 

 

まず、相手を気にしなくなった。

相手がどんなことをするのかを気にしている間はそもそも集中できてない。

集中するためには、自分のすることだけに気をまわすことだ。やるべきことをやる。するとまわりがどうとか関係なく集中できる。

ひたすら良い位置に入り、どこに打とうか考えているうちにゾーンに入った。

 

 

前後のことも気にしなくなった。

前打った時はミスしたなとか、次のポイントは取りたいからとりあえずこうしとこうとか。そういうのはなく、「いま、ここ」だけが意識にある。

 

 

最後に自分のことも気にならなくなった。

僕はこのショットが得意だとか、これは苦手だとか、今日の調子はどうだとか。それはなく、なにも心にはない状態。ただ、ボールが来たから、ただ良い位置に入って、ただ振り抜くだけ。

 

 

相手はなく、時間もなく、最後に自分すらなくなる。

ただ、「いま、ここ」で「単純なやるべきこと」だけを遂行している。その状態。

 

無我の境地と言って良いのだろうか。それがゾーンの状態だった。

 

 

このゾーン状態。感情もなかったと思う。いや、強いて言えば無限に楽しかった気がする。よくわからない。なにをしてもうまくいくような。

 

幸せだった。というべきか。

 

 

しかしこのゾーン状態は自分から入れるもんじゃない。必死に足を動かして、ひたすら自分のペースをつくったうえで、運が良いときに入れるような。ボーナスステージみたいなもんだ。

テニスみたいな相手との調子の関係性ありきでなりたつものなので、入るための条件を揃えることはできても、確実ではない。

常に運によるものだ。

 

 

運が作用するものは面白いと思う。そういう結論に友人と至った。

幸せというのもそうなのかもしれない。

常にその状態に入れるのではなく、運良くたまたま幸せになれるのかもしれない。だがそのための条件を揃えることはできる。いつでも幸せになれる用意はできる。

んじゃないかなぁ。

〈536.ポンデリング〉

最近ミスドにいきがちだ。

きっかけは京都駅で1時間半をどうやって潰すか考えたときに、ポンデリングを食べたくなったことから始まる。

 

そのあとハニーチュロが食べたくなったので夜行バスの待ち時間に行った。

 

テニスの試合を友人として5時間の末勝ったのでミスドを奢ってもらった。

 

うまい。

 

 

ミスタードーナツは昔から憧れだった。

住んでる地域にはマクドもない。テイクアウトのためだけに20分くらい車に乗る必要がある。

そういうジャンキー系はなかなか食べることができない青春だった。

その憧れたちの頂点に立つものがミスタードーナツである。

 

ポンデリングなんてきた日にゃ飛び上がったもんだね。

 

 

大阪で一人暮らしを始めて、ミスタードーナツに限らず、ジャンキーたちはいくらでも手に届くところにいた。

すると、あのころの喜びはなくなった。

そして、まあいいやを繰り返し、食べなくなった。

 

レアだったころの喜びっちゅうのは大事だったんだな。

ようやく買ってもらったゲームカセットをなんべんも繰り返し遊んだのもあのころだ。

モノに溢れていくと、大切ななにかを失う気がするよ。

 

 

憧れが憧れでなくなり、日常に落ち着いた。

それでもフレンチクルーラーポンデリングはおいしかった。

幸せな味なんだと思う。

 

日常に落ち着いたものをじっと見つめ直す時間。これが僕には必要なんだな。

そのためには余裕も必要なんだ。

 

それと適度に情報を遮断すること。ケータイを閉じ、目も閉じ。ただ座っている。

そういう時間がすごくありがたいのです。

 

 

ま、今日のミスドが幸せな味だったのは、5時間の末勝ったこともあるけどな!勝利の味と他人の金で食うミスドは最高だったぜ!

Foo!

〈535.ゲーム課金の考察〉

あたいはスマホゲームで課金したことがない。だからゲーム会社としてはありがたくはないゲーマーのひとりである。

金がないもの。仕方ない。

 

しかしゲームは好きだ。

その上で、これもう課金したろかな、っていう心理、つまりのめり込んでしまった好きなゲームの条件を考える。

 

 

まず飽きるゲームとは。

これはゲーム自体がつまらないことだ。完璧にキャラに頼ってしまっていて、正直考えてねぇべや。そういうやつ。

システムがわかりにくいやつ。

逆に画面見なくても操作できるようになっちゃう簡単すぎるやつ。

つまりゲームシステム自体の複雑具合の適当・適切さ。

 

あと、そここだわりすぎじゃろ!っていう一方、軸となるストーリーとか対戦系であればルールとかが疎か。

服装多様なのはいいんですけども、ストーリー浅すぎませんかね。そういうやつ。受験に集中しすぎて人生の大事なところを見失ってる奴感があって勿体ない。

 

やはりゲームはルールと世界観が大事よ。いかに現実と乖離させつつ、それでいて飛躍しすぎないか。これはむずかしいところ。

 

 

そんで適度に難しくって、面白いルールと世界観ができたら。なにに課金させるか。

 

ここで大事になってくるのが追加コンテンツってやつなんだろうな。Switchとかプレステだとあるあるだけど、追加エピソードとか新しい地図とかクエスト。スマホゲームならばガチャ。

 

追加で課金したくなるにはどうすればいいか。

 

キャラが立ってるゲームであれば、キャラクターのファンがついているだろう。そういう人たちが「あぁ〜ん❤️」ってなる話を追加することだ。コアファンって言うの?よくわかんないけど、そういう人を大切にしてくれ。布教するから。そういう人は。

 

ネット対戦系であれば、アイデンティティを確立させることだ。うまくなってくると、他の人とは違うんやで!っていうアイデンティティを持ちたくなる。わかりやすい例であれば服装とかもあるだろう。

比較されたときにあいつやん、っていう格好を得たい。たぶん考えたら他にも方法があるだろうな、アイデンティティ

 

 

問題にしたいのは、スマホゲームのガチャよ。

良いガチャ、悪いガチャがある。こんなイライラさせてうれしいのかよ!みたいな。その一方、お前最高すぎかよ!おっちゃん諭吉入れたろかい!みたいな。

 

良いガチャ。やっぱり定期的に当たることだよ。パチンコじゃないけど、当たらないのはただイライラするだけだから。でも当たりすぎてもレア感なくてやだけどね。

悪いガチャ。ぜっんぜんあたらへん。

 

良いガチャ。まわすために必要なやつがすぐ集まる。

悪いガチャ。やっとこさ集めても全然レアが当たらない。

 

良いガチャ。ピックアップの期間が短い。あぁ待って!すぐに星集めるから!待って!あぁん❤️今回おっさん?まあ今回は貯める時間にしまひょ。

悪いガチャ。期間クソ長い。まだお前いるんか。もうお前見たないねん。何週間そこにいるつもりなん?おっさんいらんっちゅーねん。はよ姉さんだしなはれ。いや姉さん!当たりましたけん、別の人に代わってぇや。もうええねん。別の姉さんほしいねん。

 

あとはそうねぇ。

インフレさせすぎないことよ。やっぱり。初心者でも上級者でも楽しいこと。こんなん絶対勝てへんやんかぁ。勝つためには課金せなあかんの?当たらんガチャで?嫌やそんなん。

ガチャ必須にしないことよ。

 

 

てか、スマホゲーでの課金って期待しない方がいい気がすんのよね。別コンテンツが主軸というか。

スマホゲーは広報用で、Switchのソフトが基本みたいな。あるいはリアルでのイベントでのグッズとか。あるいは書籍とか。

 

スマホゲーで課金してくれる人ってコア中のコアじゃないかしら。どうなんだろ。そういうひとなら他のなにかしらにもお金を出したくなるとか…?いや、ある意味棲み分けがあるかもしれない。ゲームでの課金派閥とリアルでの課金派閥。僕は完全にリアルでの課金派閥だな。

 

スーパーのお菓子コーナーに好きなゲームのウエハースあったら買っちゃうのよ。200円くらいの。同じ金額スマホ内に課金しようとは思わないのに。

 

 

いろんな層がいるんだろう。

まだまだ知らないことばかりだ。いま考察したところで独りよがりになるだけだ。

もっといろんな人たちの分析を読まなきゃ。

 

分析するための概念を得る必要がある。

専門用語になるんだろう。

 

結局これも大学院の研究と同じ課程を踏むんだろう。

〈534.ジョーカーたち〉

 

映画『ジョーカー』すげぇ映画を観た。 - ホウチガブログ

 

先日、映画「ジョーカー」をみた。

見てからだいちの感想を読み直した。

 

"もしどこかで救いの手がポンッと差し伸べられると、彼はジョーカーにはならなかったと思う。

不運に不運が、また不運が重なり、あるきっかけで背中をドカッと蹴られて奈落の底まで落ちていく。"

"確率がかなり低くても雷に打たれる人がいるように、自分ももしかしたらこうなるかもしれないと(略)"

 

なるほど。その感情、あるな。

 

 

このまえ破壊衝動に駆られたことがある。駆られただけで具体的な行動はなに一つ起こしていない。思っているだけならないのと同じ。だべな?

 

自分が嫌いになったとき、嫌いになりそうなとき。僕は散歩に行く。決まって夜になる。

だれにも理解されなくてもいい。でも部屋にいたらおかしくなりそうなの。そんなときに散歩する。

でもその日は違った。なにか目的があって、目的地があって散歩に出かけた。

 

目的地は墓場。夜の墓場なんて行くもんじゃないと思う。でも静かで、人目がなくて、死ぬとか生きるとか、そういうのを見つめられる気がして好きなんだ。

でもその日の気分は違った。高揚感があった。破壊衝動に駆られていた。でも思っているだけだからないのと同じでしょ?

 

 

その墓場は不思議なつくりになっている。平面じゃない。階段の左右に広がっている。何百も。階段一段上がるごとに闇が深くなる。気がした。

 

ふと、階段の上の方に目をやる。

その暗黒を表現する術を知らない。

足が踏み出すのを躊躇した。

その瞬間、誰かが下の方で歩く音が聞こえた。お堂から出てきたお坊さんだった。

 

冷静を装って、必死に階段を降りる。すべてが怖くなった。ようやく怖くなった。

 

 

もしあの時、階段を登ってしまっていたらどうなったんだろう。

 

躊躇したのはよく覚えている。これ以上ここにいちゃだめだ。

なぜって。僕にはまだ家族も友も、大切な人もいてくれる。僕をこちらにつなぎとめてくれる。くさびだか、かすがいだか、くびきだかわからないけど。止めてくれる人がいる。

 

まだ引き止めてくれるひとたちがいる。そのひとたちがジョーカーになることを止めてくれる。

もしそんな彼彼女がいなくなったら。

僕はジョーカーになることを恐れなくなってしまうかもしれない。

 

僕だけじゃない。

世界にはたくさんのジョーカーたちがいて、その人たちすべてが大切な何かを守っている。

大切ななにかを見失ったら。きっとたぶん。

 

 

ジョーカーが生まれるのは、映画の中だけじゃないのかもしれない。

 

そういう、ジョークで締めさせてもらいます。

〈533.毎日更新の理由。〉

一応毎日ホウチガを更新してます。

理由は毎日更新すれば文章が上手くなると思ったから。

500日超えて実感はありません。

毎日やればいいってわけじゃないんだろう。なにかちゃんと指導をもらったほうがいいだろう。

でもそうしなくてもいいかなと思う。

 

いまは文章が上手くなることが目的じゃなくなりつつあるから。

 

 

友人とこの前、くだらない話をしました。

もし1ヶ月女子になれるならどんな人になりたいか。

森ガールとか、普通の女子で生理を体験したいとか、予想外に盛り上がった。

僕はタバコ屋とか駄菓子屋さんのおばあちゃんになりたいとふと思った。

 

「もんじはお年寄りになりたがってるからな笑」やかましいわ。たしかに老けに憧れがあるけども。

なんだろうタバコ屋とか駄菓子屋のおばちゃんへの憧れって。

 

 

僕が属してない団体の話とか、誰々がこんなことをやってるとか、最近悩んでんだよねぇとか。そういう話を聞くと喜ぶ僕がいることを発見しました。

単純に悩みを相談してくれるっていう信頼関係が嬉しいのかも。

いやそんなたいそうなもんじゃなくて、お節介を焼きたいんだと思った。こうしたらもっと良くなるのよ〜とか。そんなときはこうしなさいな、みたいな。

もちろん自分がそんな成長しきってないのも知ってるよ。でも、お節介が焼きたいんだ。うぜぇこの親父。

 

 

タバコ屋のおばちゃんとか、駄菓子屋のおばあちゃんとか。お節介焼きの象徴として描いているんだと思う。

そのお節介焼きの暖かさを生み出せる存在。それがおばあちゃんだ。

 

昔毎日好きでみていた水戸黄門

「お節介焼きのただの隠居ですよ。」

それを一緒に見ていた隣に住む親戚のおじちゃん。毎日午後の紅茶を用意してた、お節介焼きだった。

 

お節介焼きは憧れなのかもしれないな。

だから余計な一言二言が多い。

 

 

僕が毎日ホウチガにいるのは、お節介焼きのおじさんになりたいからかもしれない。

毎日更新していれば、ふと文章を書きたくなったときに生きて書いている場所がある。

 

「最近もんじゃしか更新してないけどな」

このまえみっきーに言われた。

それでいいんだと思う。更新されなくなって死んでいくブログはいくらでも存在する。そうならないために毎日更新したいんだろうな。

 

帰る場所、なんていうたいそうなものにはならないだろうけど。

帰ってもいい場所、をつくりたいのかもしれない。

ひさしぶりに「.どうぶつのもり」を起動したくなるみたいな。いつ来ても、welcomeしてくれるみたいな。

そういうところがいいな。

 

 

だれがたぬきちやねん。あんな悪徳業者と一緒にすんな。