ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈665.プロと休むこと〉

7月24日。

 

映画を見たり、テニスをしたり、本を読んだり、非常にのんびりな休みを過ごしている。休むことを目的に休むのは久しぶりだ。これまでの休みはごまかしというか逃避というか。心置きなく、というところはなかったと思う。

やらなきゃいけないことは山積みだけど、タイミングとしてはベストな休暇だろう。ここで充電して論文まで走りきることができる。

 

 

しかし、心置きなく休むというのは難しい。休み明けに二つ課題があって、それ以外にも就職活動なり、論文の計画遂行など。考えるとしんどくなるのが複数ある。それでもきちんとオンオフしなければならないだろう。

ちょうど今日見た、過去の情熱大陸では余裕なんていらない、という職人さんがいた。常に向上心が必要だろう。

 

余裕ってのは一体なんなんだろうな。欲しいけど、手に入れちゃうとダメになるのだろうか。余裕のために頑張るけど、手に入れるとダメなのか。衰退が待っているのか。

 

 

たしかに、憧れる人は余裕があるようには見せるけど、その心のうちはわからない。本当に余裕があるのか、はたまた緊張で張り巡らされているのか。

思うに、オンオフのオンが圧倒的に占めていて、一瞬のオフの効果を最上級のものにしているんだろう。

情熱大陸でみた職人さんも夜遅くに客がいなくなってようやく椅子に座っていた。ようやく整体に行けていた。そのわずかな休みでの効果で十分ということか。

 

 

いまはわからないなぁ。プロフェッショナルとして働くのがどういうことか。休みがなんなのか。仕事がなんなのか。人生がなんなのか。

昨日見た映画では、死ぬのを恐れずに隕石に突っ込んでいった。

読んでいる本は、武士は道に尽くして潔く死ぬといった。

 

プロってなんなんだろう。プロになりたいと思うけど、なりたいと思っているプロって何者なんだ。プロはどこまでもプロなんだろう。休む時も仕事の時も。

その一途な姿に心打たれるのかもしれない。

 

 

戦闘力106日目

790(+5)

運動+3

その他+2

 

好きになるキャラクターも一途に生きる奴ばかりだ。未だにメルトリリスを思い出してため息が出る。一生懸命生きようね。

〈664.習慣の伝達〉

7月23日。

 

絶対的な話じゃないけど、小さい頃の親の教育っていうのが今でも響いている瞬間を時々感じる。良くも悪くも、息子なんだなあと思う。

 

 

親父はそれほど本を読む人ではないけど、変な本を持っているイメージがある。母親は小説をよく読んでいた。だからといって私が本を読んだかといえばそうではなく、ゲームどっぷりだった。でも、読書という行為をしない人間は大人にはなれないと理解していた。

大学入っても本を読むことは稀だった。それでもやることのない週末にはなんともなしに本屋に行って、棚を見るのが幸せだった。

大学院に入ってから真面目に読むようになった。大人にならなきゃあかんぞ、そう思うと読まずにはいられない。親の教育の賜物である。

 

 

そしてもうひとつ、大事なポイントがある。昔から、ゲームカセットひとつ買うためには通知表を良いものにしなくちゃいけなかったけど、本だけはすぐにでも買ってくれた。どんな本でもすぐに。どんなものでも、本を読むことに悪いことはない、というように考えていたのだろう。

その環境で育ったので、本は買いたくなったら買っておけ、というような習性ができた。なので、大学学部生のころの週末はもちろん、いまでも本屋に行くとなにも買わないで出てくるのはよっぽどの理由がある時だ。ふつう毎度なにかしら買って出てくることになってしまっている。今買わないで損するより、買った損なら許せる。

 

その結果、先日もらった奨学金を大量に使い込む羽目になった。やっぱり後悔はないんだけども。

 

 

もちろん、これは親が考えて決めていた習慣だと言い切ることはできない。僕が勝手に身につけた、僕自身の習慣だ、親を巻き込むな。そう考える時もあるだろう。特に都合の悪い習慣のときには親の責任を追及したくなる。

だけども、良い習慣なら親のおかげだと考えても誰も損がない。実際この習慣については親の影響が多大にあるだろうし。

 

そろそろ僕らの世代も親になってくる。友人のひとりはこどもを初散歩に連れて出たらしい。

責任を持つとなると、考えなくちゃならない。子供が大人になったときに喜ぶ習慣ってなんだろな。

 

マグレでもいいから、結果的に良い習慣を身につけたいね。

 

 

戦闘力105日目

785(+2)

その他+2

 

本はいいぞ。スポーツもいいぞ。

〈663.鰻を食べるかどうか〉

7月22日。

 

昨日は土用の丑の日だったらしい。お金のないあたしには関係ない話だね。

そもそも「土用の丑の日」ってなんなんだ。そういうまとめサイトみたいなことが今日のテーマです。

 

 

土用ってなんだ。

季節の移り変わりの立夏立秋立冬立春の直前約18日間が土用という雑節(季節の移り変りをより適確に掴むために設けられた、特別な暦日)らしい。

その土用という期間のうち、十二支の丑の日に該当する日が「土用の丑の日」と呼ばれるとのこと。

 

18日間のうちの十二支の12日なので、同じ干支?がかぶる日もある。なので、「一の丑・二の丑」と二つ土用の丑の日はあるとのこと。

 

そもそもの「土用の丑の日」は夏だけじゃないけど、これがよく取り上げられるようになったので、夏の土用の丑の日が「土用の丑の日」が指す日なんだと。

 

 

じゃあなんで鰻を食べるのよ。ご存知の通り、鰻を食べて元気になろうというのはわかる。万葉集にも一応書かれてはいるけど、習慣になったのは江戸時代らしいぜ。Wikipediaだと医学的根拠は薄いとも紹介されてるけども。そもそも鰻の旬は秋から冬らしい。

 

なんともまあ明確な出所もなければ、この時期に食べよう!なんて理由も弱い。しかし「伝統」のパワーは恐ろしいね。食べたくなるんだもの。

 

 

意味わかんないけどとりあえずやっておこう。風習っていうのはそういうもんだ。だからといって悪いとも思わない。そうやって鰻屋さんが生き抜く戦略になってるなら努力の結果だからね。

しかしまあ、思ったよりガバガバな風習でなんだか嬉しい気分だ。明確な理由がはっきりしてそれに則ってたらなんだかいかにもって感じだけど。とりあえずみんなやってるし、やっとくべや。そういうあいまいな心意気ってのは嫌いになれないね。

 

でもまあ、知った上で騙されるのと、知らないで騙されるのは大きく異なるからね。疑うことをやめちゃあ損をするってのはこういうことなんだろう。

まぁ、土用の丑の日に騙された!ってほどではないけども。

 

 

戦闘力104日目

783(+5)

その他+5

 

根拠が弱いから俺は鰻を食べませんっていう言い訳を吐けるようになったね。おめでとう。

〈662.外見勝負〉

7月21日。

 

しゃべり言葉を文字にするというのは難しい。イントネーションを表記する方法は知らないし、空気感があるからこそ伝わることもある。その微妙なニュアンスを、全部文字にしてしまったら読みにくいし、楽しくない。

この微妙なバランスが一番面白いところではあると思う。

 

 

訳あって、知り合いの方のインタビュー記事を作成している。わずか1時間足らずのインタビューだけど、それを文字にするとなると技量が必要のようだ。言葉に込められた感情をどのように文字にするか。

場合によってはカッコ書きで補うことをしてもいいけど、全部それを使っていたら読みにくくて仕方ない。

喋り言葉をそのまま文字にしてしまったら、当然区切りがあいまいになる。段落分けしたり、間を開けたりして文章の外見を良くする。

 

こういう作業は見て流してしまうよりずっと勉強になる。

 

 

一度作業をしてみると、これまでの見方と違ってくる。雑誌やらネットやら、あらゆるところで口語の文字起こしを見ることはできる。

その時に、できるだけ書き手は殺して、そのうえで喋っている人と、聞く人ではなく読む人が自然な対話をできるようにする。

こんな難しいことはなかなかない。

 

やってみてようやくその難しさはわかるもの。電車の広告でもいい。ボケッと考えてみるとなんともまあうまくいかない。

口にしてみたら気持ちのいい語感や文字数。その配置、大きさ、色。キャラクターの表情。

ただの客だからこそ見るポイントがわかるけど、作り手になるとその視点が消えてしまう。

 

外見と中身のズレ。

結局外見も大事なのよ。

初対面の人には、そこしか知る情報が与えられてないんだもの。あえて初見バイバイを狙うのもあるけど、中身で勝負するためには外見も整えなきゃ。

 

つまり、ダイエットしなさいということだ。

 

 

戦闘力103日目

778(+3)

その他+3

 

親子丼が比較的うまく作れた。でも、想像してた味とは違うんだねぇ。味を想像するってのは難しいね。そうこうしてたらたくさん食べてしまうことになる。

〈661.こころ〉

7月20日

 

やることが決まってる日というのは一長一短だ。

朝起きてから夜寝るまでの間にイベントが入る。それのためにどうするかだったり、その後にどうするかだったり、とにかく朝から晩にかけての行動を考える。これは効率的に動ける。無駄のない良い1日になるだろう。

 

やることが決まっていると、当然だけどやりたいことはあとまわしになる。それを作れるくらいのイベントかもしれないし、場合によっては1日縛られるので後日にまわすことになるかもしれない。これはつらい。メンタルには良くないね。

 

 

1日やることが決まってない日というのは一長一短だ。

朝起きてから夜寝るまでずっと自分次第だ。むりやり予定を入れるかもしれないけど、それをするもしないも自分次第。なんだかめんどくさいな、やっぱやめとこ。そうなっても誰のせいでもない。自分のためである。これが長期間続くと慣れるもんだけど、慣れるまではしんどかったりする。

 

やることが決まってないと、当然だけどやりたいことをやることができる。やらなきゃいけないことで後回しにされていたことを一気に放出できる。ストレス発散だったり、趣味にどっぷりだったり。これは人生を豊かにしてくれる。いいことだね。

 

 

仕事を朝9時から夕方から夜にかけて、という生活パターンが前提でこういうことを考えるんだけど、それが支配的になったのは極々最近の話。何万っていう人類史で考えれば当然だけどそんなわけない。かつての農業かもしれないし、狩猟かもしれない。そんな昔の自給自足じゃなくても、深夜のアルバイターだったり、夜行バスの運転手だったり、夜対応の医者だったり。いろんなところに「典型的な社会人」の生活を送らない人がいる。もっといってしまえば、仕事をするというのはそんなにえらいことでもないぞ。いまの社会じゃあ一人前の条件に、一人で自分の生活を賄える財力を持つことが挙げられる側面があると思うけど。

そもそも一人前って、誰が決めたんだ。

 

 

それはともかく、やることがたくさんあるのはいいけど悪いのよ。やることがなんもないのもいいけど悪いのよ。

おまえはいいよな、なんてことは隣の芝が青いだけで、ひとにはひとの悩み辛みがあるもんだ。改めて肝に銘じておこうと思いました。

 

 

戦闘力102日目

775(+3)

その他+3

 

やりたいことと、やらなきゃいけないことを、きようにこなさなきゃね。

〈660.緊張のこと〉

7月19日。

 

試合があった。ひさしぶりに出るとやはり緊張する。しかし気分が悪くなるものじゃなくて、ワクワクする心地よいものだ。この緊張の根本には楽しみがある。テニスに対する感情が変わってきていることを感じる。

 

 

この緊張感は他にもある。大学院の受験も一つそれに近いものがあった。今後のしばらくの身分が決まる、という点においてはテニスとは大きく違ったものだったけど、それでもワクワク感があった。

それに比べて、気分が悪くなるような、怨憎会苦みたいな緊張感はこの前の研究会での発表だ。センター試験に近い。吐き気を催す。

 

怨憎会苦、というのはもともと仏教用語らしいが僕はゲームで知った。憎くて怨むような相手にも合わなくちゃいけないっていう苦しみ。まさにこれだ。

仏教だと、たぶんだけどこういう苦しみから逃れましょう、っていう教えなんだと思う。逃れるのも大事である一方、どうせだったら楽しい方に変化させたいものよ。

 

 

なんで試合は楽しい緊張で、研究発表は嫌な緊張なんだろう。ポイントとしては、誇れるポイントがあるかどうかな気がする。

 

テニスが誇らしいかどうかと聞かれれば、間違いなく誇らしい。それだけの時間を費やしてきたからネ。でも、これで全国大会に出てこいと言われたら考えものだ。まわりは僕なんかよりずっと努力している。そんな環境で誇らしいというのは厚顔無恥な気がしてくる。それでも、サーブだけは誇れるかもしれない。

 

そう考えると、当然研究発表は誇れない。自分より長いことセネガルに関わっている人しかいないし、理論に関しても僕よりも当然知っている。市民大会レベルのニイチャンが、いきなり全国大会に出てしまったようなものだ。しかも同じコートで全国プレイヤーが打ち合っている。そんなところに一年弱の若造が乗り込んでごらんよ。心臓に毛が生えてない限りは無理があるぜ。

 

 

誇れるようになった時、きっと楽しくなるんだと思う。どうやったら誇れるようになるか。努力して、人によっては結果を出すことだし、結果よりも自分で自分を認めるパターンもあるだろう。

つまりは自分の方法で誇れるようになったら、きっと楽しくなるはず。

 

 

戦闘力101日目

772(+13)

運動+10

その他+3

 

なんだかバタバタしている。明後日になれば落ち着いて毎日一つ投稿に戻るはず。

〈659.後半戦に続く〉

7月18日。

 

7月も後半に差し掛かる。今年も残すところ、片手でおさまる数しか月が残ってない。カウントダウンが終わりを迎える頃には、僕は論文を出しているはずだ。なんもとおそろしい。

 

毎年過ぎるのがはやくなるのだろうか。去年の終わり際にも同じことを考えた気がする。つまり、毎年毎年はやくなっているのか。死ぬ頃にはジェットコースター並みだったりするのか。嫌になっちゃう。

 

 

いやそうじゃないという可能性を考えてみる。過ぎるのがはやくなる描写はいろんなところで見ることはできる。しかし、去年との比較の上で早いんじゃなくて、想定より早くなるってことじゃないのか。

仕事量が増えたりして、充実感からはやくなるのはあるだろうけど、だとしたら、30歳ぐらいでピークになるはずだ。そこから先は仕事に対する熟練度で仕事をすることはできても、脳がさらに活性化することはないらしいじゃないか。充実感は30から40で上限に達して、50歳以降はそんな脳味噌がバリバリ動くのは考えにくい。

 

 

あいやまたれ。想定っていうのはこれまでの経験からつくられるものじゃないか。それなら、去年までの経験から今年の想定は作られるわけだから、どっちにしろ去年より早くなるように感じてるんじゃないか?

あえて違うと考えてみる。脳みそは愚かなので、去年のスピードがどうとかあんまり考えないで今年の計画を考えたりする。つまり、やりたいことをとにかく詰め込む、ということ。

それなら、毎年毎年はやくなってるんじゃなくて、やりたいことが減らないので毎年同じくらいはやく終わってしまって、これができてない、みたいな議論になるんじゃないのか。

 

これの方が個人的にはスッキリする。煩悩の塊としてはぜひともこれを採用したい。それなら、やれないのは僕が悪いんじゃなくて、煩悩が悪いことになる。スピードは変わってないので、煩悩を整理できるようになればちゃんと嘆くことなく充実して後悔なく墓場に行ける。

 

でもそれって、煩悩整理できない自分が悪いんじゃないの。

 

 

戦闘力100日目

759(+6)

運動+6

 

100日が過ぎた。ラディッツ襲来時の悟飯の潜在力くらいには伸びたということにできるが果たしてどうなんだ。もっと修行しねぇとベジータに勝てねぇぞ!