ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈819.社会的とは〉

12月25日。

 

クリスマスだけど、ヘビーな経験をした。僕自身がどうだったわけではなくて一種のフィールドワークみたいな。大阪のいかにも大阪らしいところを歩いてきた。なんちゅーか、色んな人が色んな思いをしながら生きてるんだなぁと思った次第です。

 

 

仮に僕の知り合いがみんないなくなって、完全に孤立したとしよう。仕事はコンビニの深夜のバイトってことにしよう。バイト先でも話すことはなかったとしよう。僕は生きているだろうか。僕は僕のためだけにお金を稼ぐ。誰とコミュニケーションを取ることもない。

僕はきちんと生きていこうとできるだろうか。自信がない。

 

もちろんこれは極端な例であって、バイト先やらちょっとしたコミュニティやらには参加することが少なからずあるとは思う。しかし、困った時に話ができる友達がいなかったり、親族もいなかったとしたら。うーむ。僕は生きる理由を失う気がするぞ。

 

 

もちろん、そういうときに生きようともがいたり挑戦するためにツテをつくろうとか思える人が素晴らしいと思える。むしろゼロなんだからこれからプラスになるしかねぇっていう考えだ。

いや無理だなあ。なんのためにそんなことするの?とか考えちゃいそう。というのも今僕が生きている理由は今僕と仲良くしてくれている人のためにあるようなところが大きいからな。いまから仲良くなってどうしてこうして、なんて考える脳みそがなかった気がする。

 

 

なにが正しいのかわからないよ。生きてるだけで意味があるっていうふうに、いま思えるのはやっぱり自分を知ってる誰かがいるからであって、僕を知る人が一人もいなくなったら僕は自死するかもしれない。想像できない。そういう奴こそ何も考えずただなにもせずに生きていることになるのかもしれない。

究極的には人間も動物なので、子孫を残すことができたらそれでオッケー。だが、ただの動物じゃなくて社会的動物っていうところを見てみると、子孫を残すことよりも大事なこともあるような気がする。それはたぶん社会を残すための行動であって、ある意味優しさかもしれないし、とんでもない資金力かもしれないし、面白い娯楽を提供することかもしれない。もしかすると誰かの性欲を掻き立てるなにかしらを生み出すことが種の存続には必要かもしれないし。

 

クリスマスだけど、なんだか触れるべきじゃなかったなにかに触れた気がする。ただ、触れて良かったと思う。知らぬが仏だけども、やっぱり知っておきたいじゃない。世界のこと。

 

 

戦闘力259日目

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クーリスマスが今年もやってくるー。楽しかった出来事を消し去るようにー。

〈818.いつかの僕へ〉

12月24日。

 

ようやくここに来て研究に進展があった。本来ならば一年前に出会っておくべき論文。仕方ない、これもまた出会いなのだ。サンタさんからのプレゼントということにしておこう。

 

 

結局これまでの研究はやっているやっているといいつつも、やり方が若干的外れだったのかもしれない。それも仕方ない、学部の時と全く違う研究をしているわけで。そうなると初心者でしかないのだ。悲しいかな、身近な人でそういう相談ができる人もそれほどいるわけではなかった。ここまで一人で登ってきたとしてはなかなかがんばったんじゃないの。的外れだけども。

 

そしてここからが今後の僕の人生のためのメモ書き。初心者なのは仕方ない。どうしようもない。なにごとにも挑戦しようとしたら全員等しく初心者なのだ。

ただ、いかにしてお作法を身につけるか。これは努力次第だろう。僕はいまになってそのお作法を身につけたような気がする。結局のところ主観的な問題意識を持って先人達の努力の結果を見ることができたかどうか。これが一番大事なところだと思う。

 

もちろん小手先の技術っていうのはあるわけだし、それが最終的な質の向上の助けになるのは間違いない。ただそれは経験者の助けになる話であって、部内試合で一回勝つことを目標にしている学生に対してタイブレークの勝ち方を伝えても仕方ない。まだドリブルも満足にできないチビに対してダンクシュートのコツを伝えても仕方ない。

 

いかに本質を見抜くことができるか。そのためにはそのことについてのお作法を学ぶことが大事なんだ。

 

 

じゃあ本質とかお作法とか一体なんだ。

本質っていうのは、それ以上掘り下げることが不可能なことだと思う。定義づけに近いかもしれない。ゲームの本質と言われるものは、おそらくゲームシステムとゲーム性にある。障害とそれを突破するためのルールがシステム、具体的に突破する際の道具がゲーム性、そんな感じ。

この先掘るとしたらこれ以上深くなることはなく、おそらく並列関係のなにかは出てくる。縦ではなく横に掘ることしかできなくなったらそれが本質的なものだと思う。

 

お作法ってのは、思考方法のことだと思っている。こういう現象が起きた時はこうやって対処する、みたいな。上級者が無意識下に選択できるやつ。体に染み付いて前提条件になっているもの。

それがどうやって身につくか。上級者には聞かない方がいい。だってそういう人たちって、もう意識してないもの。言語化しない領域にいるもの。それよりも、とにかく数多く先輩の生み出してきたものに当たること。これだろうな。

そうやって自分の中でお作法っぽいものを確立させる。

 

 

未来の僕よ。一年後あるいは二年後、同じ壁にぶつかっているだろう。

だからこそ、研究を通してサンタさんがくれたことを思い出してくれ。

本質に向かうこと、お作法を身につけること。これのためにはとにかく多く作品を見て、そして考えることだぞ。それをしない限り僕に未来はない。

 

悲しい時に届いておくれ。

 

 

戦闘力258日目

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その他+2

 

サンタさんのプレゼントとしては形ないものってのはつらいな。やっぱり電飾に囲まれてケーキとチキンを食べたかったナァ。

〈817.別れ際〉

12月23日。

 

引越しの準備をしている。1ヶ月後には部屋がすっからかんになるはず。ベッドの処理をどうするかまだ考えついてないわけだ。困った困った。

 

 

荷物は全て実家に行く。実家に行って、次の一人暮らしまでは仕舞い込まれるものがほとんどだろうな。次の一人暮らしももしかしたら家具付きとかの場所かもしれない。そしたら今のスターティングメンバーが揃うことはもうないのかもしれない。

すべてがひとつの終わりに向かっている。学生の終わり。やりたい放題だった6年間が終わる。来年はどうなるか全く想像がつかないけども、なるようになるしかない。

ただ、中学の卒業も高校の卒業もとても寂しいものだった。想いがあったから。友達にも校舎にも。

大学はそうでもなかった。ゼミの最後は寂しかったけども、どこかで会うだろうという感覚があったからまあいいやって感じだった。そっちの家もそうだった。4年住んだから想いがないわけではないけどもそれより引越した先、つまり今の生活が楽しみで仕方なかった。京都っていうのは高校生の時から住みたかった場所だし。そういうのもあって、この別れが近づく寂しさってのは久しぶりだ。

 

 

年の終わりが近いってのもあるかもしれない。クリスマスの予定がないし、年末年始もたぶん論文で忙しくなる。だからそんなにゆっくり過ごしましょうね、とは思えない。だからこそ、この忙しさに流されて別れがまともにできないんだろうなと無意識的に思えてくる。こんなに早く引越し準備を始めるのもその一つの現れだろうな。

ちゃんと一人暮らしの終わりを名残惜しく思いたい。なんでだろうな。そこに意味があるのかわからないけども。

卒業アルバムなんて誰が見ただろうか。大掃除の時に目に入ってみちゃった時くらい。よっしゃ卒業アルバム見るべな!と思って見た人はいるのだろうか。一番見るのは、まだ卒業してないタイミングだと思うな。卒業式当日とか。やっぱり名残惜しく思う気持ちってのは大事なんだな。

 

 

別れっていうのは、それまでそれに支えられていたことを思い出す。失って初めて理解するっていうけども、それを疑似体験し始めるのが別れ際だろう。

別れる運命に逆らうことはできないし、別れなければ次のステップは来ない。だからこそ進んで別れなければならないけども、やっぱり大事なものは大事なの。

だから別れ際の気持ちって大事にしたいのよ。日常にあるありがたいものを、ありがたいと思えるから。

 

 

戦闘力257日目

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勉強+2

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目の前に積み上げられた段ボール、解体された本棚。君達と過ごした6年間。僕は間違いなく大人に近づいた。ありがとう。あと1ヶ月、よろしく。

〈816.スポットライト〉

12月22日。

 

スポットライトを浴びた経験があるかい。あれは本当に不思議なもんだ。

スポットライトの先には僕を見ている人たちがいるはずなのに。まるでなんにもないみたい。世界は自分だけで、自分のためだけにやっているみたいな。そんな感覚になった時、とんでもなく気持ちがいいんだ。

僕はピアノを弾いていた。小学校の6年間しかやってなかったけど、あれは忘れられない感覚だった。あったかくて、気持ちがいい。もう暑いくらいなのに。スポットライトが明るすぎて何にも見えない。光源の二階のところから光が来ているのがわかるだけ。

そのあと椅子に座って弾く。最後の曲、ショパンノクターン。6年間最後の曲。そして最後のスポットライト。コンクールじゃなくて、ただの発表会。きっと誰の記憶にも残らない。最後の一音を弾いた。おわり。最後の音。

 

立ち上がって、決められた通りの場所でお辞儀をする。暖かくて、眩しくて、気持ちがいい。拍手が遠くに聞こえる。僕は僕のためだけにノクターンを弾いた。

 

 

テニスでも英語弁論大会でも、人前に立つ経験は幸いにも少なくなかったと思う。それでも、暗闇の中から僕だけを照らすための光はとんでもなく気持ちよかった。誰のためでもなく自分のために。

 

社会に生きるようになると、自分のためっていうのは悪いことだと学んだ。だからこそそんな感覚は誰にも言わなかったし、言うべきものでもないと思っていた。

でも、自分のための自分の曲を自分のための会場で弾いたような気分。あれは忘れ難い。忘れたくないし、たぶん死ぬまで忘れられない。

 

 

なんでこんなこと言うのか。

読んでいる漫画、左利きのエレンでの言葉がそんな感じがしたから。売れるために描く絵は審美眼のない人間には良いと言われる。審美眼がある人間が見るとクソ喰らえだと言われる。

自分が描きたいから、売れるためではなく、自分のために描く。それができる人間同士だけが繋がる。それができるのが天才。

 

僕が天才だったわけではないし、そんな世界に入れるわけがない。でも、登場人物がいう。

子供の絵には勝てない。

 

その純朴さっていうのは捨てちゃうともったいないものかもしれない。自分が描きたいから描く。弾きたいから弾く。社会で生きていくためには邪魔なものだけど、どこかに捨てちゃいけないエゴっていうのがあるんだと思う。

それは決してわがままではなく。思うがまま、あるがまま、とかそっちの意味だろう。

 

またスポットライトを浴びて、ピアノを弾いてみたいな。

 

 

戦闘力256日目

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そういうわがままを解放する瞬間ってのは大事にしたいと思う。けどわがまま過ぎたら嫌われるでな、適度に抑えつつだでな。

〈815.就活の念能力〉

12月21日。

 

就活ばかりの話題になってしまうが、これも一年くらいの期間限定なので許して欲しい。

最近H×Hを読んでいる。序盤にハンターになるための試験を突破するという流れがあるが、当然ながらここからが話の始まりだ。

試験を突破した後もっと強くなるために修行にいくが、試験を突破していても本当のハンターにはなっていないことを修行先で知る。それがこの漫画のシステムである念能力というやつだ。

この念能力を身につけていなければ一人前のハンターではない。しかしそのことを受験者は知らないし、世間でも知られていない。

 

 

就活がまさにそんな気分になってくる。仮に内定をもらっても、すぐにつかいものになるわけではなく研修を超えてようやく新人と呼んでもらえる。

我々就活中の人間は、その領域に達したいけどわからない。大切ななにかがそこにはあるけど、そこには決して辿り着くことができない。いわゆる「正解」と言われるやつ。それがわからない。

 

もちろん人生に正解がないように、絶対これということはないと思う。しかし、就活中の人間が到達すべき謎の領域があるような気がする。

 

 

例えば大学1年生の時、就職というのは遠い未来の話だった。仮に食品メーカーを目指す人間がいるとしよう。しかし、その人間は食品を見てもなんとも思わないのが大学一年生というものだ。

単純な一般人と大差ない。

 

大学2年生。ちらほらと就活を気にし始めるだろう。ゼミとかサークルとかの先輩が就職活動を始めたので、ちょっと気になりだす。このころからちょっと食品メーカーを知り始めたり、パッケージを見るようになる。

 

大学3年生。なんかサマーインターンには参加した方がいいとか聞くのでとりあえずネットで調べてみる。なんとなくやってた合同説明会とか、学内での説明会にいた会社に興味が湧いたのでインターンを申し込んでみる。このころには自己分析を始める人が出てくるだろう。食品メーカーを見比べて、なんとなくここらへんで仕事をしてみたいと思うかもしれない。

 

大学4年生。あれよあれよと本番を迎える。自己分析して、自分の未来を考えて会社を選ぶ。そしてESを書いて、面接して、晴れて内定。

 

これが僕の周りにいた人間の就活ルートだったと思う。

 

 

これになにか念能力的ななにかがあるような気がして仕方がない。それがなんだかわからないんだけど。社会人になって求められる能力のことだろうか。わからない。

ただ、その能力さえ手に入れられればどんな会社でも成長を見込める人間として存在できるような気がする。会社に思わせるわけではなく、実際自分の能力に成長するしかないみたいな。

 

ここでひとつ、自信なんじゃないかと思ってみる。単純な自信家ではなく素直な自信家。まさにゴン=フリークスみたいな。孫悟空でもいいや。ああいう、天性的なポジティブ野郎。

ああいう人間といると、なんだかできるような気がしてくる。熱に当てられるというか、伝播するというか。

 

就活生が社会人と比べて能力が低いのは当然だ。それなら、能力が伸びるだろうと思われる人間を取りたくなるのはたぶんハズレではないと思う。

となると、やはり一を聞いて十を知る奴がいいだろう。それはつまり、成長欲求が激しいってことだろうさ。

つまり孫悟空でもゴン=フリークスでも、大事なのは自信ではなく単純に強くなりたいという素直な気持ちなんだろうな。

 

 

成長欲求が激しい結果、これまでにどんなことを手に入れてきたのか。これが大事だろう。

ぽっと出でこの会社にしようと思っても、それまでの繋がりの末に選んだ会社であれば、なにかしら会社と繋がる価値観があるだろう。

それだ。成長欲求からの価値観の類似。

それを丁寧に説明する能力があればいいのかもしれない。

 

つまりどの企業でも良しとしてくれる念能力なんてきっとない。あるのは自分と会社という二者間のコミュニケーションってだけだ。

君に惚れた!結婚してくれ!を懇切丁寧に伝えればいいっていうのを誰かが言ってた気がする。

 

 

戦闘力255日目

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勉強+1

その他+3

 

なにも成し遂げてきたような気がしないから自信がないのよ。でもここまでに成し遂げてきたことって社会的に考えれば大抵大したことじゃない。そうじゃなくてそれをどう認識してきているか、それが若い人間には必要なんだろう?

〈814.理不尽〉

12月20日

 

大抵のことはその理由が推測できるし、原因もなんとなくわかる。しかし、理不尽なことが起こった時が大事なんだと知ったわけです。理不尽なことに出会った時の自分が今の自分だと思った。

 

 

コンビニでバイトしてると謎にキレてくる人がいる。あれはもう災害みたいなものだ。どうしようもないし少なくとも店員は悪くない。年齢確認のボタンを素直に押さない年寄り。これにキレられたとき、人生で初めて心の底から怒りが出てきた。なるほど怒るってのはこういうことかと一つ知った。

 

就活のイベントで人数制限があるとき、落選するのはもうどうしようもない。運がなかったのかもしれないし、参加する理由がダメだったのかもしれない。これは反省すればいい。しかし直接理由を教えてくれないのは理不尽だと思った。参加希望も時間をかけたつもりだし、人にも見てもらった。それでもダメなものはダメ。

できる限りの反省はしつつ、災害みたいなものだ。次の機会のために体力を無駄に減らさない。

 

冤罪で怒られたことがある。本当に理解できないけどとにかく謝ってしまった。冤罪だから謝らなきゃいいってのはそうだと思うけど、それよりもその場の空気感なりその人との関係性を考えると謝罪してしまった。悲しいし悔しい。けどこちらが謝罪したことで、逆に謝罪を後でもらった。たまたま相手がいい人だったからだろう。しかし怒ってる人には謝るに限る。自分が悪くないなら謝らなきゃいいってのは僕には合わない。知ってくれてる人が知ってくれりゃあそれでいい。

 

バイトで約束事と違って解雇になったことがある。解雇された時は自分が悪いと思った。ちゃんと業績を出せていた解雇にはならない。結果を出さない自分が悪い。後で考えてみりゃあ、僕だけが悪いわけではない。だがどうしようもない。そんなことで解雇するようなら離れてよかったバイト先だったのだろう。そんなところで拾われててもきっといいことない。やめてよかった。合理的に考えましょう。

 

 

社会で生きてると理不尽なことは少なくない。ただ、理不尽を被ってるのは自分だけじゃない。自分の何気ない選択が誰かの理不尽になっているかもしれない。

理不尽な時は考あるだけ考えて、適当にホイホイと捨てることも必要なんですな。諦めっていうより切り替えっていうほうが響きがいいね。

 

 

戦闘力254日目

1622(+4)

勉強+2

その他+2

 

まあ完全であれば理不尽なことは起きないわけで。必ずどこかに自分の落ち度があるはず。

切り替えつつも頭のどこかに残しておくのも大事なこと。

〈813.スマホと米〉

12月19日。

 

最近よく更新をサボるんだけど、それには理由がありまして。

スマホから書き込んでるけども、通信制限が来ているわけです。通信制限が来ていると、時々文章が正しく保存されない。すると20-30分の努力が水の泡になる。これは結構ストレスなのです。ということでWi-Fiがあるカフェに来ているので更新ができるわけです。

 

 

今の時代、家にWi-Fiがないのはかなり致命傷なのだ。幸い有線はあるのでパソコンは問題なく使える。ただ、スマホが動くのが遅くなるのは非常にストレス。動画も見れないし、LINEはよく送信できないし、ちょっとした調べものもできない。

有線を使って無線に変換できるやつがあるとかだいちが言ってたけども、もうまもなく引っ越しになるからもういいやってことです。

まさかスマホに支配されつつある日常が来るなんてなぁ。

 

 

ただ、これは一人暮らしだからこそだと思う。だれかと過ごしている間はスマホをいじる時間が短くなる。実家でもあんまりいじらなくなるし、誰かの家に泊まる時も泊まりにきてる時もスマホの存在を忘れることが往々にして。

つまり、孤独の友がスマホだということだ。それは確かに合点がいく。一人時間でコミュニケーションが取れなければ暇つぶしをする必要がある。

かつてはその暇つぶしは本を読んだりなんだりだったけど、やはり反応があると人間はそれに流れてしまうと思う。そしたらゲームになったし、インターネットになった。

 

一人時間が増えれば増えるほど、スマホいじりの時間が長くなると思う。

 

 

ただ、そしたら人と会ってる時にもいじる時間が長くなったとも言える。

対人でのコミュニケーションはめんどくさいところもある。気を遣ったりもするだろうし、思い通りのコミュニケーションができないこともよくある。

スマホは完全に支配できるのだ。基本的に自分のタップに対しての反応で動くから。自分優勢で物事が進められるのは気持ちがいいからな。そしたらスマホを支配してるのかスマホに支配されているのかわからなくなってきた。

これは稲作の発展にも言えることだな。米を作ればその年の収穫の推測ができる。自分優勢だ。しかし、その結果ほかの狩猟をしなくなって米依存になった。そしたら飢饉のときに完全にやばい。

米を支配の道具に使ってると思ったら、米に支配されていたっていう言説。

 

スマホもそんな感じとちゃいますのん。

 

 

戦闘力253日目

1618(+3)

勉強+1

その他+2

 

カフェで流れるのはクリスマスソング。今年は一人クリスマスだこら。何も起きない静かなクリスマス。