ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈916.目標に苦しむ話〉

4月1日。

 

新年度です。この時期はいつも新しい気分になる。しかし気分なのですぐに消える。今朝だってアブが永遠に腕にまとわりついてくる夢を見た。年度が変わった決意新たな気分も年々薄れていくのかな。

 

 

そもそもそんな切り替えって大事なのか。事務的には色々切り替えがあったりで大変だと思うけど、新年度だからどうとはあまりない。新入生や新入社員なら目標を掲げるのもわかる。身分がかわるから。

なるほど、つまり年度の切り替えで気持ちを新たにするのは身分が変わるからか。確かにそれならわかりやすい。この身分ではこの目標をクリアしようみたいな感じかしら。身分が変わらなくても先輩2年生から先輩3年生になるように歳を食うんだから、それに応じて考えてもいいな。

いやしかしよ。それってだいぶ社会に慣れちゃってるよな。

 

 

もちろんそういう節目があるからこそ振り返りのタイミングが生まれるわけだけども。しかしそれってまわりが振り返るから振り返ります、という形骸化するやつだ。

つまり、目標を立てることを目的にしがちなんじゃないか。よく小学生のときに学期のはじめに今学期の目標を書かされたけど30分後には忘れてたからね。目標を立てて気分良くなって終わりじゃなくて、なんていえばいいんだろうな、ちゃんと身の丈にあった目標じゃない目標が目的になると思うんだ。

 

神社に毎日通ったら夢が叶ったっていうのは、夢を毎日口にし続けた結果そういう脳の構造になったとか夢のない話があるように、目標ってそういうものだと教わりました。

だから、こうしたいなぁ〜じゃなくて、こうなるためにはどうしようっていうのが叶う考え方だと思う。

 

 

身分の切り替えで目標を立てるのは、新しい身分での夢が定まるからだろう。

僕は営業マンとして営業所で一番になりたいなぁじゃなくて、〇〇さんみたいな営業マンになるには⬜︎⬜︎と△△が足りてない。なので⬜︎⬜︎こためにはAをやろう。△△のためにはBをやろう。それで〇〇という資格を取ろう。

みたいな。目的、目標、具体行動の三つが揃ってようやく現実的に動けるってコーチが言ってた。

 

 

なのでこれが見つからないうちは変に目標・夢を考えない方がいいと思うんだ。自己決定感のない目標は最終的に自己肯定感下げる時もあると思うし。

僕自身、夢はあっても目標まで落とし込めてないんだもんなぁ。まずは夢について知ることからだよねぇ。

〈915.ワンピースのこと〉

3月31日。

 

就活のことばかり考えていても仕方ないので最近読んでいるワンピースの話をしよう。ようやく50巻くらいになって最新巻の折り返しくらいになった。あれだけ話膨らませられるのはすげえな。読み進めていって、ここでようやくコイツが出てくるわけねって感じな答え合わせ感がある。

 

 

まず読んでびっくりだったのが、いわゆる能力バトル系だったことだ。ゴムゴムの実みたいな悪魔の実を食べた人は能力がもらえる。基本的にそれのぶつかり合いってことだ。もちろんそうではないタイプの、単純に強いやつもいるわけだけども。

能力とかそんなになくて、どちらかといえばジョジョよりもドラゴンボール的な殴り合いだと思ってた。まあジョジョよりも頭使わなくていいんだけども。ちょうどその中間くらいかなというくらい。

 

 

読んでる時のワクワク感ってのはやっぱり良いジャンプ文化だなあと思うわね!こんな強くなってどうすんの!まだ強いのいるんかい!みたいな。それを潰してやったぜみたいな。

ワンピースは特に、それが仲間との共闘が必須なのがいいね。ドラゴンボールは悟空みたいなのでいえばルフィなんだろうけど、悟空よりも仲間に見せ場作ってあげるのが好き。それが行きすぎて進行が遅くなるところはあるけども、まあそれも含めていいんじゃない?

ゲームでいえば、ストリートファイタードラゴンボールで、スマブラがワンピースみたいな。

 

 

この歳になってようやく漫画にハマっているわけだ。面白くて仕方ねぇやな。ただ、最新巻には辿り着かないような気がする。別の漫画が読んでみたい。北斗の拳とか、ゴールデンカムイとか、もうちょいおじさんが好むようなやつがいいな。あとは推理ものとかもいいやな。

小説よりも敷居が低くて気晴らしになるのがいいな。映画・アニメよりも拘束時間がないし。アニメ好きになれないのはそこなんだよな。

 

漫画文化って面白いよなぁ。ちょっとそういう文化人類学の本も読んでみたいかも。北斎とかからね。

〈914.メタモン受検〉

3月30日。

 

せっかくなので就活関連の話にしましょう。この数ヶ月しか経験しない貴重なことだからね。

webテストを何回か受けておりまして、問題が難しいなぁとは毎度思うんですがそれ以上に性格テストみたいなやつ、あれが苦手で仕方ない。

毎日こうやって考えることを文字化しているので、人より自己分析的なところはしているつもりなんだけども、ああいうテストはとにかく苦手だ。自己分析よりも自分自身に問題があるのかもしれない。

 

 

よくある型として、あなたは社交的か一人を好むかみたいな問い。

場面によって使い分けるじゃない?だからどうしたらいいかわからない。テニスって文脈であれば社交的になるけど、研究になったら一人を好みますよ。単純にその分野に自信があるかどうかみたいな話になってくる。なので、私は社交的か一人好みの性格かといわれればどちらでもよいってことになる。

こういう問いが多すぎて苦手だ。そういう問いを60問とか100問とか答えていくと、自分が何者なのかふわふわしてくる。

さっきの問いだと私は社交的といっときながら、問いの立て方を変えてきたら一人を好む人間になる。そういう答え方していったら、今の時代ウソついてるとか言われちゃうわけでしょう?困っちゃうよな。

 

 

そういう問いについて、嘘偽りなく答えるってどういうことなんだろうな。そういうのって、逆に完璧なキャラクターを演じてるんじゃないかって思ってしまう。

基本的に、って言われても自分のどこに基本があるのかよくわからないし。テニスの試合で負けるのが嫌って経験からは負けず嫌いってなるけど、弁論だったら全然負けても良いですし。つまり自分に負けるのは嫌だけど、人に負けるのは別に良いって感じなのは負けず嫌いになるのかしら。

 

性格じゃなくてストレス耐性見てるだけですってならいいんだけども。機械に性格測られるとあたしみたいな人間はマイナスになるなぁ。環境に合わせて性格変えるメタモンみたいな。

 

そういう意味で面接されたいなぁ。面接されてどんな人間かなって判断されるのならその結果どうであれ受け入れるけども。面接させてもらえないってのは納得いかないぞ。もちろん足切りされてるなら仕方ねぇやな!

 

 

性格診断テストの正しい受け方ってなんだろうな。素直になるって難しいんだなあと改めて思うわけです。

〈913.生活力〉

3月29日。

 

年度末ということもあるのかもしれない。就活の一次の結果をポロポロといただいている。なんというか、打率2割から3割くらいだろう。

ある程度運みたいなところもあると思うので打率2割3割は上々だと思うようにしている。しかし、世の中には第一希望の一社で決まる人もいるとか。打率10割ということだ。だからこそ話題になるんだろうけど、そういう星の元に生まれてみたかったねえ!

 

もちろん全部の会社が第一希望というわけではないので一つ一つ熱量が違う。熱量なかった会社に受からないのはまあそうなるわなと諦めがつくけども、そこそこ熱量かけて落ちるのは本当に不思議なもんだ。運の良し悪しとかちょっとの差かもしれないけど、○か×かで言えば×なのだ。

さすがに連続であかんよと言われると気が参ってくる。就活の厳しさっていうのはこういうことなんだねぇ。

 

 

しかしまぁ、正社員になるのが第一の条件だけどもそれよりも大事なものとしてきちんと生きることがある。生きてりゃどうにかなるんだから。

全てにおいて、最悪のパターンも想定しておいたほうがいい。最悪になった時、僕はコンビニ店員ができるぞ。即戦力になる。派遣とかの選択肢だってある。そうしてどこかで頑張って、正社員を目指したってよかろうし、何か別の道を見つけられるかもしれない。

そういうメンタルのセーフティネットが必要になってくることもそりゃあるよ。

 

 

なかなかうまくいかないけども、そういう時こそ生きてるだけで丸儲けってことでいいんじゃないですかね。

これまでの人生では公務員の人が身近な人で多かったし、大学の友人も会社に入る人ばかりだった。すこし視野を広げて、いろんな生き方があることを知ってみるのも、この時期のメンタルセーブのためにはありかもしれない。

みんなよく生きてるよな。すげぇよ。一人で生活できる力ってすごいことだったんだな。当たり前のようで、当たり前じゃなかったぞ。

〈912.趣味のこと〉

3月28日。

 

ひさしぶりにテニスの試合に出た。そこそこ勝ったけど、そこそこなところで負けた。非常に悔しい!あー悔しい!

体力のなさと筋力の低下が著しい!仕方ない。練習してないもの。練習しない人は勝てないってことよ。だとしても悔しい!負けたことより自分の衰えが悔しい!悲しい!

でも仕方ない。次に向けて練習するしかあるまいて。

 

 

社会人の趣味の難しさがようやくわかってきたかもしれない。もちろん社会人ではないので仕事の疲れは知らない。

しかし、練習する時間は限られるし場合によってはドタキャンしなくちゃいけないし。なにより趣味ってそもそもあんまり意味のないことだ。上達しなくても仕方ないって割り切れるから純粋な楽しさがなければ続けられない。

典型的な社会人ゴルフみたいな接待目的ではなく、純粋に自分のために時間を費やすことが難しくなっていくのが社会人なんだな。

 

 

その中で、なぜ趣味に時間を費やすのか。

やりたいからだ!あくまで純粋に!楽しいからしたいんだ。それがゲームかもしれないし、スポーツかもしれないし、文化活動かもしれない。なんだっていい。そこに楽しさがあれば趣味だ。

意味はなくても楽しいからするのだ。そもそもその「意味」ってなんだよ。

簡単な話、役に立つかどうか。将来役に立つから資格を取るのは趣味ではない。意味を見出しているもの。それはもしかしたら楽しくないかもしれない。

意味がないのが趣味なのだ。意味がない、というより直接役に立たないからこそ趣味なのだ。生活の足しにならないし、むしろ金は消えていく。そこから学びがあるかと言われれば怪しいところだし、学ぶことが目的じゃあない。

目的は!楽しさにある!それが趣味!

 

 

テニスの話に戻させろ。

悔しいんだ。僕は悔しくて仕方ない。ワガママボディに仕上げてしまった自分の愚かさが悔しい!年下に負けるようになってしまった衰えが悔しい!

しかし!楽しいのだ!悔しさが楽しさなのだ!なぜならそれが勝負だから!悔しくなければ、負けることへの恐怖がなければ勝つことの喜びは生まれない!

ここに意味なんてない。勝ちたいから上手くなりたい。それがスポーツだ。

 

それが文化活動になれば変わってくるだろう。どれほど理想に近づけるのか、自分の想像を、想いを表現できるのかが楽しくなってくる。そのための勉強は苦しくない!テニスで上手くなるための練習と同じだ。それがあるからこそ楽しくなるのだ!

 

趣味がないやつなんていない!楽しいことが趣味なのだ。そこに貴賎はない。

動画を見ることだって趣味だ。ゲームだって趣味だ。試合観戦と同じだ。

もちろん、創造的な活動と比べるとそのまま情報の受け手であるか発信元であるかの違いはある。しかしそれはジャンルの違いに過ぎない。発信の方が大変なのは間違いない。しかし楽しさは人によって違うから問題なし。

 

ただ俺は勝ちたかった!観客を魅了するプレーをしたかった!それができないのが悔しい!

半年後に続く。

〈911.ありがとう〉

3月27日。

 

24歳になった。今年は群馬でちょっとイベントごとがあって忘れられない日になった。とはいえ誕生日は全く関係ないことだ。

年々誕生日はふわふわしてくる。なんで祝うんだろうか。なんでプレゼントをもらえるんだろうか。

 

 

どうぶつの森とかだと、生まれてきたことを喜ぶ日とか言ってくれる住民がいる。人と人が出会うためにはまず双方が生誕する必要があるということだ。

確かに自分の存在を疑うきっかけは普通に生きていれば基本的にない。自分がこの世に生まれたことを考える日という意味では誕生日は確かに祝っていいかもしれない。この世に生まれたことを考えるってなんだよ。ただ生まれたことを喜べばいいだけだろう。

 

友達は、1年間無事に生きられたことを祝っていると言った。赤ちゃんの頃とか飢餓に悩まされたかつての日本だとそうかもしれない。明日も無事に生きているかわからない環境であれば、それを365回積み重ねることができたことを祝う日になる。現代でも事故だったり急病だったりでいつなくなるのかはわからない。

確かにそうだ。生きれていることはありがたいと思い、人との関係性を感謝する良い機会なのかもしれない。

 

 

しかし感謝するってなんだ。よく災害や戦争の歴史を振り返って、今生きていることに感謝するとか、いまの平和な時代を噛み締めるってなんだ。いまいち具体的にわからない。

友人関係であれば、改めていつもありがとうと伝えることかもしれない。親友を失った時の一番の後悔はそれだったからね。今一度、僕/私と仲良くしてくれていることに感謝を伝えることだ。

家族であれば、ここまで育ててくれたこと、生きる支えになってくれたことを感謝することだろう。産まれるためには両親が必要だし、育つためにはきちんと世話をしてくれる人間が必要だ。その大変な苦労を感謝することかもしれない。

 

時代を噛み締める、生きていることに感謝するってのはイマイチわからない。だから、各々が考える感謝をそれぞれの対象に向けることだということにしようかな。それが結果的には時代を噛み締めることになるかもしれないやな。そんなかっこいいことしなくていいやん。

いつも近くにいてくれる人にありがとうって言えばいいじゃん。

 

 

ちょうど年度終わりに誕生日なので振り返るにはちょうどいい。

誰にとっても激動の1年間だったね。来年度はもっと楽しい一年になるといいですね。

とにかく、1年間ありがとうございました。また1年間よろしくお願いします。

いつもありがとう。お世話になっております。これからもよろしく。

〈910.言葉のこと〉

3月26日。

 

テニスバカとバカテニスは違う。

テニスバカは、どんなことでもテニスに関するように解釈するような、テニスのことしか考えないようなやつのことだ。一種の愛のある呼び方だろう。

しかしバカテニスに愛はない。作戦もないようなテニスプレーのことでありそんな愚かなことをする奴のことだ。

文字は同じだけど並びが違うだけで愛があったりなかったりするし、良い意味にも悪い意味にもなる。

 

こういう言葉の解釈って人によって違ってくるから、意味してるところを伝えるように気をつけたいところだ。

 

 

この910回のうちに何度か話しているけれど、特に形容詞に気をつけたい。

かっこいいと言っても、かっこよさは人によって違うので。

「あのかっこいい車だよ!」といってもポルシェをイメージする人もいれば、ダンプカーをイメージする人もいる。言葉は不完全だからこそいかにも人間らしい営みだと思う。だから好きなのだ。

 

そして当然「人間らしい」とはなんなのか、という話になる。

"僕が意味する"人間らしいとは、完全一致のような完璧さはないが、人と人の間でなんとなくで成立する様子だと思う。かっこいい車の例のように、かっこいいは人によって違うけど、車という四輪の鉄の塊であることは大抵一致する。

それを会話を通してじりじりと一つのモノに近づいていく。これが人間らしさだと思う。

 

 

しかし、どちらか一方が一致に向かうことを放棄したらすべてがおわりになる。会話はおわるし、放棄するという選択をすることで信頼関係もおわる。

それが権利闘争になれば戦争になり、個人間であれば絶交ということだ。この不完全で不安定な社会性も人間らしい。

つまり、雲のような不定形で流れてしまうようなものが人間らしさなのかもしれない。それをじりじりと特性を変化させれば水という液体でさっきより形を得るし、肩を組めるようになれば氷のように完全な安定感を得るものになる。

しかし、それもまた安定感はないんだけども。

それでも根拠がなかったとしても信頼するべき時もあるだろう。

 

そういう間のふわふわの特性は言葉という形を得ることで変化できる。

つまり、人間関係をふわふわしたものからギュッとつなげるためにも言葉は必要なんだと思うんだ。それが面白くも難しくて嬉しくなったり悲しくなったりするもとなわけだ。