ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1026.顔突っ込みすぎると痛い目に遭う〉

7月19日。

 

忘れたくないので、あえて渦中のできごとについて考える。
例の大会の例のクリエイターの方の過去に問題があったことについて。

 

 

前提として欠いてほしくないのは、いじめは絶対にいけないということ。
僕自身、いじめとまではいかないまでも友人からハブられて教室に居場所がなかった時期がある。
いまでも当時の出来事や気持ちが忘れられないように小さい頃のトラウマはいつまでも足を引っ張るものだ。単純に生きにくくなっていると思う。
いまでもはぶってきた人たちのことは、心からの友人とは言いたくないし、余計なコミュニケーションは取りたくない。
とはいえ、それはもう10年以上前のことである。完全な決別はできないけども、過去のことは過去のこととして諦めるほかない。復讐したとして、自分はすっきりするところがないわけでもないかもしれないけど、連鎖が切れるわけではない。
10年以上前のあの子たちと、今になって同等になるつもりはない。

 

 

今回の問題について。
過去の出来事をほじくり返すのは当事者だけでいいんじゃないのか。いまの当事者たちの判断が全てでいいんじゃないか。あとは法律に任せればよかろう。

SNSやテレビのコメンテーターがいうことは、結局後出しじゃんけんに過ぎない。
もちろん、人を陥れたという過去の問題はそれはそれとしてちゃんと対応してもらって、それを今どうするのかは別の問題ではないのかしら。過去の出来事の清算が、辞退ということならばそれとして終わりでいいじゃない。
それで迷惑がかかるのは運営委員会なわけで我々はなんにもない。

 

もちろん、それで国民としてあかんやろうと言うのはわかるけど、それは組織に言うべきであり、個人への攻撃は違う。
それこそいじめの連鎖である。社会的正義ほど偏ったものはない。
むしろ、反面教師として受取り、自分自身を律する機会にすればいいだけ。

 

 

税金を使って何やってんねんというのは、それはそれとしてしかる場面で行動すればいいだけで。
人を批判するのではなく、出来事を建設的に議論すればいいだけで。
罪を憎んで人を憎まずってことが必要なタイミングじゃないのかしら。
出来事っていうのも、ほとんどの場合がかなーり入り組んでいるので安易に周りが口出すものじゃないっていうのも研究で知った。

それについて議論したいのであれば、顔が見える相手とやったほうがよっぽどためになるよ。

〈1025.フルメタルジャケット〉

7月18日。

 

なんとも恐ろしい映画を見てしまった。
かの有名なハートマン軍曹が出てくる「フルメタルジャケット」。
ベトナム戦争における米軍の若者の話。
人が人を殺して良しとするのはどういうメンタリティなのか、とんでもなく恐ろしいものを見た気がする。

 

 

ベトナム戦争については現代社会で散々批判的に授業で教わって、かなりひどいモノだったとぼやっとした認識はある。
日本も戦争で散々な経験がある国で、だけど僕たちは大昔の出来事なような気がしてしまっている。
そして最近だとFPSゲームみたいな戦争のようなゲームも無料で遊べる。

結局物語の中の出来事としてしか「人殺し」はないし、あったとしても遠いところで起きた悲惨なニュースを伝えるキャスターが伝える程度だ。

もちろん「フルメタルジャケット」も結局は物語に過ぎないけども、映画の良さといえるかもしれない。なにかリアルに感じてしまう。
だからとてつもなく恐ろしかった。

 

 

作品は、訓練所での生活の前半と、ベトナム戦争の前線での戦いの後半に分けられる。
訓練所であのハートマン軍曹がやってきた若者を「殺人鬼」へと変化させていく。訓練所での罵倒や体罰で徐々に狂っていく若者。それに比べて…とかまったく考えられないくらいに恐ろしい訓練生活である。小さいコミュニティだからこそ発生する問題も出てくる。
そうして戦地に送り出される若者たちは、単純で狂暴な戦闘マシンに変化していく。

 

 

後半はその訓練所を卒業した青年ジョーカーを中心に描かれる。
ヘルメットには「生まれながらの殺人鬼」と書きながら、胸には平和を示すバッジを掲げている。
その矛盾を抱えた青年が戦地でどうなっていくのか。
そして明確には語られていない最後のシーンは、よーく考えると背筋も凍る恐ろしいことが表現される。
こうやって戦争は勃発して現地で戦う人の精神が堕ちていくのか。とんでもないものを見てしまった。

 

 

いろんな解説サイトを見てみると、この監督は「幼児退行」と「暴力」がよく描かれるテーマらしい。
確かに訓練所では、反抗が許されない徹底的な環境で抑圧されて、その結果、性的なところでしかはけ口がなくなる。それすら抑圧され、自由もなくなり、どんどん思考が単純になっていく。
まるで、親のいうことに従わされる未就学児みたいな雰囲気だ。

この「単純さ」といえる「ピュア」な精神が暴力すら肯定できる精神にするのかもしれない。
物事を単純化しすぎず、曖昧なままそれを受け入れることこそ大人としての理性なのかもしれない。
その微妙なバランス感覚を失うことが「幼児退行」なのだと思う。

 

 

僕は戦争の現場を知らないし、今後も知りたくない。
でもそこにおける「破壊衝動」「殺しの肯定」はなにか大事な人間としての生き方についての核があるような気がする。
こういう作品を描ける監督とか脚本家はどんな生き方をしてきたのだろうか。
それもまた恐ろしい。

〈1024.ワニのこと〉

7月17日。

 

100日後のワニの映画を見た。
公開されてから超批判的なコメントもあれば、感動したというコメントもあった。これは自分の目で確かめないといけないと思い、映画館に行った。
個人的な感想として、たぶん僕と仲良くしてくれる人や一緒に飯を食べれる人は少なくても批判はしないだろうと思った。好きな作品だ。

 

 

100日間のできごとは本当にTwitterの雰囲気そのままで100日経過するのが本気で嫌だった。死ななくなったら原作との乖離で嫌かもしれないけど、死んだらそれはそれで本気で悲しくなる。
そういう意味でいい作品であった。

そして各地で議論がある後半。若干のネタバレがあるかもしれないので、見る予定の人は読まないでください。

 

 

結論として、確かに100%満足な描き方ではなかったけど、それも含めてリアルな誰かの人生を「空の上から」見ている気分だった。
後半部分は、Twitterでの100日間からさらに100日経過した時のことを描いている。そして、ワニの代わりに新しい登場人物が現れる。こいつが曲者なのだ。

原作を知っている人であれば、ワニを中心にある程度のコミュニティができているのはわかるだろう。そのコミュニティに急に隕石が落ちてくるような感覚である。


これは確かに「不快」である。しかし、この「不快」は理由あっての「不快」であり、ここが映画版の肝である。
日常生活における人間関係の不快感がそのまま体験できる。しかし、だからこそ、その不快感の元凶がなにを思っているのかを慮ることの重要性も感じる。
その思慮があったのが、ワニであり、もう一人の主人公ネズミなのだ。

 

 

人が若くして亡くなると、残された人たちのコミュニティは気まずくなる。
だってそのコミュニティが集合した時に、亡くなった人がいないんだもの。

その気まずさを破壊するためには隕石が必要なのだ。
その隕石は、最初は不快感を残しつつも、ワニが残した優しさでコミュニティが動き出した。
だから、その全てをひっくるめて100ワニが愛おしい作品だと思う。

その隕石が理由で作品を嫌いというのは、おそらく現実生活で苦労の多い方がその作品の中に自己を投影してしまい、その不快感に耐えられなくなったのだろう。
求めていたのは「作品の中のワニ」であり、「作品としての『100ワニ』」ではなかった人によって批判がされているんだと思う。

 

 

だからと言って、批判することをおかしいというつもりはない。おそらくその人たちは、ワニ君が好きで好きで仕方ないから、彼に対するもっと明確なフォローがほしかったのだと思う。
そのフォローがなくて、あとで振り返った時に、そういえばそれは「ワニ君のおかげだ」と気づくのもまたリアルな人生っぽくて好きなのだ。

つまり、主人公はワニとネズミの二人がいることを前提に観ると納得がいくと思う。
すごく好きな作品でした。できることなら、さらに100日後、1000日後のネズミやモグラ、先輩や両親ワニ、そして隕石君がどうなるのかを観たい。
どうか幸せであってくれ。

〈1023.道徳の授業の思い出〉

7月16日。

 

小学校にはいろんな思い出がある。
道徳の授業はなかなかに不思議だった。そういう時間を使って行われる生活ストレスチェックというアンケートも変だった。
いまでもあれはなんだったんだという謎が残されているって意味ではやる意味があったのかもしれないけれど。

 

 

道徳の授業は大抵教科書に書かれている物語を読まされてそこからいろいろと考えなさいというモノだった。
こんなことを毎日書いているような人間なので、そういう物語が大好物だった。しかしながら、ほとんどは考えなさいと言いながらも「こういうことはやりなさい」「こういうことはしちゃいけません」という常識であったり一般的なマナーの感覚を知らせるものだった。
あたしはそれを全然否定しないし悪くないものだと思うけど、そういうものより実体験で痛い思いをしないと覚えないこともあるので微力なものだと思っていた。
そんな中でもなんだこれはというのが、障害を持った方が初任給で両親にご飯をおごるという話。
読んで温まった。けどなんだという不思議な感じがあった。心温まる経験が大事なのかもしれない。これをすれば人は喜びを感じるんだという感覚が道徳なんだろうけど、それをストーリーだけで伝えるのは、違和感があった。
結果的には一番正解だったかもしれない。というのも出版社側からの「道徳はこういうことやで!」という押し付けをまったく感じなかったから。それが当時の僕には違和感だった。「この物語における『教え』はなんだったんだ」と消化しきれなかった。
それが道徳なんだぞ少年よ。

 

 

ストレスチェックシートもわからないモノだった。
「あなたがストレスを感じた時、どうしますか」という質問文。小学生にはわからんだろう。ストレスという言葉はわかったかもしれないけど、どうしますかって言われても知りませんってなる。
質問文が抽象的すぎるのだ。「あなたは友達と喧嘩したり先生に怒られたりして落ち込んでしまいました。あなたはそのあとどうやって元気になりますか」というような質問文にしてほしい。
そういう具体的な質問にすれば素直に回答するのに、抽象的な質問だと適当に答えるようになる。僕は「トイレですっきりする」と回答したことを今でもはっきり覚えている。それがストレス発散にはならんだろう。

「趣味はなんですか?」小学生に趣味もへったくれもあるか。生きることで精一杯なんだ。宿題したりゲームしたり友達と自転車に乗って悪さしたり、親に怒られたり。なにが趣味といいたいのか知るか。
「あなたは宿題が終わったあと何をしますか、休みの日はなにしますか」そういうことにしておけ。それが大人が求めている本来の回答が得られる質問だと思うぞ。
ついでに僕は「トイレに行くこと」と答えた。トイレが好きすぎるくそ小学生だぞ。トイレだけにね。

 

 

おとなの目を既にある程度は見抜いているのがガキンチョだぞ。あんまなめたことしてたらトイレに引きこもるからな。

〈1022.趣味とは〉

7月15日。

 

趣味について答えるタイミングがあった。
趣味は、本来の目的と手段が交錯してることだってだれかが言っていた。収集癖であれば、集めたうえで何かをするのが本来の目的なのに集めることが目的になってること。
この定義に当てはめて考える上では、この「本来の目的」っていうのがこれまた曖昧である。
特にスポーツでは。

 

 

例えばボクシングという競技を考えよう。
もともとは暴力である。それを代闘士という決闘を代理で行う人が現れたりして暴力が観戦の対象になった。
そんでもってルールが整備されて、足を使うのは別の競技になったり、時間が決められたりして、そうやってボクシングという競技ができた(と思います)。
このボクシングの元々の目的を暴力による支配・優越性に置くとするとボクシングというスポーツ全てが趣味になってしまう。
しかし、ボクシングというスポーツにおいて試合で勝つことを本来の目的として考えれば、それを強くなるために始めたランニングが楽しくなればランニングが趣味だし、試合に出ずにサンドバックをボスボスし続けることが楽しくなればそれが趣味だと言える。

つまり、その「本来の目的」をどこにおくのかはその人次第だし、いわゆる「常識的に言えば」というやつにゆだねるしかない。

 

 

例えば僕の趣味、テニスをどうするか。
テニスという競技はもともとラケットではなく手で石みたいなやつをぼこぼこを打ち合ってたことにルーツがあるとか聞いたことがある。
その時点でもはや本来の目的がない。気晴らしが本来の目的になる。となると、僕がいまテニスをやることも気晴らしなので本来の目的に沿ってるので趣味とは言えない。
テニスをプロがやる競技として勝つことを本来の目的にすると、当然試合に出れば勝ちたいのでそれもまた本来の目的に沿っている。
では、テニスの本来の目的を、大会に出て賞金を稼ぐこととする。これならば僕のテニスは趣味になる。
しかし、それがテニスというスポーツの本来の目的ではないだろう。

 

 

つまり、スポーツが趣味ですというのは本来の目的がどうとか置いといて、スポーツをしていること自体が趣味になるのだ。

生きる上での「気晴らし(=スポーツ)」は、生きることの本来の目的とはならない。手段の目的化が発生しているわけだ。
つまり、気を晴らすという生きるための手段だったものが、気を晴らすことが目的になっているということ。

じゃあスポーツ選手はどうなるの?
賞金を稼いでいるから趣味ではないってことか?生きる上での目的になっているということか?

 

なんだかよくわかんなくなってきた。
あとでまた考えることにする。次は、生きることは趣味になるのかを考えてみたい。そこがわかればなにか進展がある気がする。
生きるという目的を手段としてとらえるってなんだ。

〈1021.オリンピック〉

7月14日。

 

オリンピックまで残すところあとわずからしいね。一応開催する方向らしいけどどうなるかしら。
どうせ開催するのならやっぱり楽しみたいし、どうせ我々がこれまで通り部屋の中で見守ることだけなのでせいぜい楽しませてもらいます。

いろんな競技が目白押しなので毎日いろんな世界レベルのプレーを見れるというのは単純に楽しいし、いろんな人が興味を持っている競技について一定レベルの知識を得られる絶好の機会である。実況・解説の人の話をたくさん聞けるチャンスである。これはいい。すごくいい。

 

 

一番はやっぱりテニスだろう。
フェデラーが欠場するらしいけど、ジョコビッチは来てくれるらしいじゃない。ほかにも何人か欠場するらしいけど、強い人が何人も来てくれる。せっかくならやっぱり生で見て、会場のブースを歩き回る楽しみを満喫したかったけど、仕方ないわよね。
日本勢がメダルを取ってほしいけどいかがでござんしょ。

 

 

個人的に気になるのはサッカーである。
詳しくないけど、今年のチームは海外経験者も多くて若くて才能ある人が多いらしいじゃないの。年齢制限の枠外の選手もワールドカップで活躍した人たちなわけでしょう。
他の国ももちろん強いけど、メダルを期待できる面子らしいじゃない。女子もかなり世界からチェックされているわけでしょう。予選がかなり厳しいけど頑張ってほしい。
って、サッカー好きな人がラジオでいってたわよ。

 

 

ほかにはやっぱり柔道かしら。毎年どこかしらでメダルを取っていて、その人に関するドキュメンタリーも見れたりしてそこまで含めて面白い。
審判の人が「マティ!」っていうのも結構好き。日本のスポーツ?だと思われるのでそこんところ頑張ってほしいね。

 

 

とまあ素人根性丸出しなわけだけど、素人がいるからこそどんどん広がっていくわけで!そういう言い訳のもといろんな競技を楽しめるのがオリンピックなわけです。
別に賭け事するわけじゃないからいいじゃない。でも素人が知った口でべらべらしゃべると後で恥ずかしい思いするからね。
そこらへんわきまえたうえで観戦するのが楽しいですね。

〈1020.デバイス〉

7月13日。

 

この1000字程度の文章、基本的にスマホからポチポチやるんだけどパソコンのメモできるところに打ち込むほうが早いような気がするし、体の負担もない気がする。
単純に画面との距離かもしれないけど、ちゃんと作業するなら結局スマホタブレットよりもパソコンである。

 

 

画面が大きいこと。これはなによりも大事なことだ。
複数のファイルを開いたまま作業が進められることは武器である。スマホであれば、一度ネットで調べものをして、その結果を脳で復唱しながらこのはてなブログのアプリを開くことになる。
別にそこまで負担ではなけども、パソコンだと半分ネット、半分メモができるので脳の負担と行き来の煩雑さがない。
あとタッチだと時々致命的なミスがあるけどパソコンなら大抵のミスは回避できたりもする。
画面が大きくて、かつキーボードなのが決定的かもしれない。

 

 

あとは、やっぱり姿勢だ。
パソコン作業となるとほぼ確実に椅子に座ることになる。これがやっぱり負担が少ない。
腰が痛くなるほど長時間じゃないっていうのが前提だけど、スマホよりパソコンのほうが画面との距離があるので目の疲労スマホよりない気がする。
あとは椅子に座っていると仕事をやってる感があって気分がいい。
もちろんこれは仕事じゃあないんだけどね。それでも作業ちゃんとはかどったで感があって自己肯定感が上がって精神的にもよろしい。スマホだとやっぱりそこまで作業って感じじゃないし。

 

 

最近勉強している本だと初期のパソコンの様子とかが書かれてたりして、その時と比べてなんとノートパソコンは楽なものでしょう。部屋まるまるパソコンである必要もなければ超専門的な技術なしである程度は操作できる。
いい時代になったねえ。それが手のひらサイズのスマホにもなったわけだし。

おなじデジタルデバイスでも、アナログ的な観点からその良し悪しはあったりするのでその使い分けができる。良い時代だねえ。せっかくだからそれぞれにあった使い方ができるようになれば、それこそライフハックでしょうな。
スマホタブレット、パソコン以外にもいまだとウォッチもあるし、これから他にも出てくるでしょう。


せっかくいいものがあるんだから、昔がよかったと言わずに取り入れたほうがいろいろ楽になったりするわよね。