ホウチガブログ

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〈1024.ワニのこと〉

7月17日。

 

100日後のワニの映画を見た。
公開されてから超批判的なコメントもあれば、感動したというコメントもあった。これは自分の目で確かめないといけないと思い、映画館に行った。
個人的な感想として、たぶん僕と仲良くしてくれる人や一緒に飯を食べれる人は少なくても批判はしないだろうと思った。好きな作品だ。

 

 

100日間のできごとは本当にTwitterの雰囲気そのままで100日経過するのが本気で嫌だった。死ななくなったら原作との乖離で嫌かもしれないけど、死んだらそれはそれで本気で悲しくなる。
そういう意味でいい作品であった。

そして各地で議論がある後半。若干のネタバレがあるかもしれないので、見る予定の人は読まないでください。

 

 

結論として、確かに100%満足な描き方ではなかったけど、それも含めてリアルな誰かの人生を「空の上から」見ている気分だった。
後半部分は、Twitterでの100日間からさらに100日経過した時のことを描いている。そして、ワニの代わりに新しい登場人物が現れる。こいつが曲者なのだ。

原作を知っている人であれば、ワニを中心にある程度のコミュニティができているのはわかるだろう。そのコミュニティに急に隕石が落ちてくるような感覚である。


これは確かに「不快」である。しかし、この「不快」は理由あっての「不快」であり、ここが映画版の肝である。
日常生活における人間関係の不快感がそのまま体験できる。しかし、だからこそ、その不快感の元凶がなにを思っているのかを慮ることの重要性も感じる。
その思慮があったのが、ワニであり、もう一人の主人公ネズミなのだ。

 

 

人が若くして亡くなると、残された人たちのコミュニティは気まずくなる。
だってそのコミュニティが集合した時に、亡くなった人がいないんだもの。

その気まずさを破壊するためには隕石が必要なのだ。
その隕石は、最初は不快感を残しつつも、ワニが残した優しさでコミュニティが動き出した。
だから、その全てをひっくるめて100ワニが愛おしい作品だと思う。

その隕石が理由で作品を嫌いというのは、おそらく現実生活で苦労の多い方がその作品の中に自己を投影してしまい、その不快感に耐えられなくなったのだろう。
求めていたのは「作品の中のワニ」であり、「作品としての『100ワニ』」ではなかった人によって批判がされているんだと思う。

 

 

だからと言って、批判することをおかしいというつもりはない。おそらくその人たちは、ワニ君が好きで好きで仕方ないから、彼に対するもっと明確なフォローがほしかったのだと思う。
そのフォローがなくて、あとで振り返った時に、そういえばそれは「ワニ君のおかげだ」と気づくのもまたリアルな人生っぽくて好きなのだ。

つまり、主人公はワニとネズミの二人がいることを前提に観ると納得がいくと思う。
すごく好きな作品でした。できることなら、さらに100日後、1000日後のネズミやモグラ、先輩や両親ワニ、そして隕石君がどうなるのかを観たい。
どうか幸せであってくれ。