ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1103.プログラミング初心者〉

10月4日。

 

ゲームのプログラミングを始めてわかったこと。
まったくゼロの空間になにかを生み出すというのは非常にややこしいということ。

 

 

例えば、始めて作成したブロック崩しについて。
まず土台となる床一つと壁を四つ作る。そのうえで、「ボールが当たると消えるブロック」を複数個作り、「モノにぶつかると反射する、重力に沿って動き始めるボール」を一つ置く。ここまでは想像に難くない。
しかし、重力の影響を受けるのはボールだけ、反射は常に同じ大きさ、壁は消えずにブロックだけ消える、などなど細かく一つ一つに設定を与えなければならない。

つまり、まるで神になったかのような気分になれるけど、それはつまりゼロからジュウまで全部決めなければならないということ。ややこしいね。

 

 

しかしそれでも編集ソフトでかなり簡単になっているんだと思う。そのソフトがなければ、そもそも重力とはなにかから定義しなけりゃならないだろう。便利な時代になったもんだね。ありがたい。
しかも、最近知ったけども、プログラミングでも全部打ち込む必要もないようなものもあるらしい。「ローコード開発」「ノーコード開発」という話らしい。その両者の違いはいまいちわかってないんだけども、直感的にプログラミングができるやつ、と認識すればいいらしい。
わかりやすい例として、任天堂の「はじめてゲームプログラミング」がある。あれは視覚的にわかりやすく簡単なゲームを作ることができる。他にもGoogleが提供しているものがいくつかあるらしいが、それだとGoogle系のアプリを紐づけて、実用的に環境を改善できる。Googleのメールアドレスに連絡がきたときに、自動的にスプレッドシートにデータを送る、的な。

ゼロから作るのは難しいけど、そういうサポート付きならかなり楽になるのは間違いない。

 

 

そうなってくると、プログラミングでなにかをつくりだすことの特権性はなくなってくる。それよりも、そのプログラミングをするためのソフトづくりができる人が制作側では必要になってくる。あるいは、その作り出したもののクオリティの高さを突き詰められる人が必要になるだろう。
つまり、ソフトな中でのハードとソフトのそれぞれということだろう。

どちらにせよ、なにかをクリエイトする際には環境の神様になるか、中身の神様になるか、というどちらも鬼のように難しい仕事を与えられることになる。

 

 

よくもまあこの地球とか世界とかをきれいにつくったもんだ、創造主というやつは。もちろん、ここだけ無重力のような異例はないし、急病が発症したり、100%or0%がなかったりする。だからこそ、自然環境についてはだれしも平等で、そういう美しさがあったり、数学的・物理的な美しさが生まれたりする。

ゲームの創造神になるっていうだけでもなかなかに難しいものなのにね。しらないことばかりなんだろうね。

〈1102.どうでもいい話〉

10月3日。

 

バイト中に思ったこと。
僕は接客業が好きである。「店員」という仮面をかぶっていつもの自分ではない他人のようにふるまうことができるからだと思われる。
同じ店員同士での態度と、対客の態度で全くテンションがちがう。意識しているわけではなく、勝手にそうなってしまう。そしてその違いを楽しんでいる。
そういった意味では、着ぐるみとかVtuberとか演技に興味がある。チャンスがあればやってみたいものだ。

 

 

しかしながら、いずれもやりたいからやれるもんでもないだろう。一番敷居の低いVtuberも、趣味として勝手にやる分にはいいがちゃんと数字を出そうとすると色々分析して経験を積んだうえでようやくちょろっと人気が出るかどうかといったところだ。

着ぐるみの演技というのも難しい。発言ができない分、身振り手振りで感情表現をしなければならない。しかも表情は当然のこと変わらない。つまり、「うれしい」「かなしい」「いかり」などなどの表情を体の動きで補完することになる。これはかなりの難易度である。ちょろっとイベントで歩き回るぐらいの出番ならごまかせるかもしれないが、いわゆる舞台で動き回ったりするような着ぐるみアクターにはなかなか難しいだろう。

俳優は言わずもがな。演技をする機会というのもなかなかないし、するためにはきちんと経験を積まなくちゃならんわけだ。

 

 

ゴフマンのドラマトゥルギーという理論では、その場の空気・秩序を乱さないために人は与えられた役割を演じる、と分析されている。僕の「店員」という役割を果たす演技もその一つだろう。日常の中での演技である。

これをわざわざ「演技」とは認識しないだろう。秩序を保つための行為に過ぎない。しかしながらそれが楽しいんだから仕方ない。そういう意味で、コンビニ店員は一種の天職だろうと思ったこともある。しかし、お客さんがいないときや品出しはなんにも創造性がなくてつまらなかった。ということでは、自分で何かを生み出しながら同時に演技ができたら楽しいんだろうけども。アドリブで演技できたらいいのかしら。

 

 

しかし、それでお金をもらえるとしてもやだねえ。あくまで自分の楽しみとして自分のためだけに遊びとして「演技」をしてみたい。しかしながら「演技をする」となると相手の存在が不可欠である。一人でラジオパーソナリティのようなことはなかなか趣味としてはできないわね。そういう意味ではゲーム実況者は一人演技かもしれない。しかし、それでも当然視聴者が必要である。

つまり、遊びで演技はひとりで勝手にやる悲しい・痛いおじさんになるほかあるまい。

 

 

接客は確かにめんどくさい・偉そうなお客さんの相手もしなくちゃいけない。若干の敷居の高さのあるところで接客をしたいもんだ。
それはホストになるしかないのでは?

〈1101.夢を再定義するおっさん〉

10月2日。

 

最近よく見る夢。
過去の自分ができなかったことを、挑戦してやっぱりできなかったという悲しい者ばかり見る。

 

 

M-1に出ようとしたけど、コンビの友人の用事によって参加申し込みもできなかった。漫才師になろうとしたわけじゃないけど、一回くらい経験してもいいだろうと思ったものだ。
夢の中だと、某大手お笑い事務所の合宿に参加して最終日に漫才を披露したら0点評価された。ツッコミである僕の責任でつまらなくなった。

 

 

なんども話題にしているけども高校生までは本気でテニスをしていた。夢の中では今プロとして活躍している奴が学生時代のころと一緒に練習をしていた。けどもその時点でまったく歯が立たなかった。

 

 

お笑いもテニスも、ちょっと挑戦しようとしてたけど結局なにもなく終わってしまった。その微妙なコンプレックスを夢に見るととんでもなく嫌な気分で目覚めることになる。
特にお笑いについては別に舞台の上でやりたいとは本気で思ってなかったのになぜこんなに気にすることになってしまっているのか理解できない。でも、確かに後悔しているポイントではあるけども。


いずれも十分に吹っ切れたはずだと思っていたのに諦めきれずにいるということかもしれない。それは仕方なし。しかし、今は別の夢であったクリエイターは叶いそうなのである。我慢してくれや。

 

 

大人になるというのは、こういうのをたくさん抱えながらもきちんと整理して生きることなんだろうと勝手に思っている。人生は一回だし、時間も有限である。できることよりできないことのほうが多いのは当然である。その中でできることに注目して、その範囲を広げていくことが生きるということだろう。
となると、できなかったことは、確かにできそうではあったかもしれないが辞めたものである。いつまでも気にしていたら今できることもできなくなってしまう。
さっさと諦めるべきだ。

 

 

 

しかしながら。
「夢に見る」というのは深層心理のような部分で今でも「夢に見ている」ということであろうか。そして、当時と違って今はできるようになったことも広がっている。


お笑いに関しては「舞台に立つこと」だけがクリア条件ではない。別の観点からクリア条件を探すことだってできる。
テニスもそのはずだ。「グランドスラムで優勝」だけが全てではない。他人と比べて頂点に立つことも一位だが、そうじゃないことだってある。レッドオーシャンで戦うか、ブルーオーシャンで戦うのか、そこに優劣はない。

 

ということで、大人になるというのはそういうことでもあると思う。一つに絞っていた過去の夢の再定義を試みて、そのうえで達成のために頑張ることだってできるはずだ。
そのうちの一つが、こどもに夢をかなえてもらうことなのかもしれないけども。教育熱心になってしまう親はたぶんそういうタイプなんじゃないかな。

 

 

過去の夢を再定義して再び追いかける、というのはなかなかしっくりする「大人」の再定義であるように思える。


はなから夢を諦めてしまうのはもったいない気がする。そういう意味ではまだまだ青臭いのかもしれない。「青臭いおっさん」に憧れていたことを思い出した。僕にとっての大人とはそういう人なのかもしれない。

〈1100.自己紹介のこと〉

10月1日。

 

いよいよ10月である。就活生はこのタイミングで内定式があることが多いだろう。僕もそのうちの一人であった。
まだまだわからないことばかりだし、配属先もわからない。なんにもわからないというのは、ポジティブな話の時は包装されたプレゼントを受け取ったようなわくわくである。半年後にようやく社会人になれるわけだ。一年後には逆に後輩が入ってくるのを心待ちにしているはずだ。

 

 

そういうことで、内定者同士の顔合わせや自己紹介があった。
社員さんや社長がいる手前だろうけど、ちゃんとした自己紹介・目標提示をする人が多かった。20代で入社前なんだから、もっと欲望丸出しなもんだと思ってた。みんなちゃんとしてて素晴らしいなあと思った次第だ。

ファーストコンタクトが大事なのは間違いない。そして長い付き合いになれば問題ないと思うけど、濃い付き合いがない場合はその印象が全てになる。
となると、やはりインパクトのあるワードチョイスが必要だと思われる。
自己紹介は簡単なようで、馬鹿にしちゃいけないものである。

 

 

よく聞く話であるが、自己紹介で「○○の人」という認識をしてもらえたら勝ちである。

例えば、オタク丸出しにすれば「アニメ好きな人」という認識をしてもらえる。それが人によってはポジティブにもネガティブにもなるけども、まずは覚えてもらうことだ。そのうえで印象の良し悪しを考えればいいだろう。
名前を覚えられる人なんてそうそういない。新入社員が二桁であればなおさらである。そのためにも、顔を見た時に「自己紹介で○○の話をしていた人」と記憶を引き出してもらえれば話題ができることになる。
そして、そういう場合の記憶にある場合はポジティブな話題が取り上げられる。

 

そして記憶に残るためにも、他と違うポイントで話をすることが大事である。
全員が趣味の話をしたら、いかにおもしろインパクトな自己紹介も薄れてしまう。「趣味の話をした人たち」のうちの一人としてピンとこないうちの一人になってしまう。そういう時は、例えばこれまでの人生で一番の成功/失敗の話をしたらまた別の記憶として残るだろう。

つまるところ、自己紹介は自分のことを知ってもらう機会であるけども、あくまで視点は相手であることを意識することである。

 

 

自分の話をして喜んでくれるのはファンと家族・親友だけである。そうでない人の場合は自分の話よりも相手が何を求めているのかを考えた上で発言することである。

面白い話をする、というのはそれの顕著な例である。自分が面白いと思った話も、相手が面白いと思ってもらえるように編集する必要がある。自分が面白いと思ったポイントだけ話してもなにも伝わらない。


ということで、僕の中では上手い自己紹介をする人は話が面白い人だという結論に至った。相手をよく見ることが大事でしょうね。

〈1099.ワクチン後なので手抜き〉

9月30日。

 

ワクチン二日目。若干の微熱とだるさに襲われている。37.1度程度なのでほとんど普通だけど、若干頭が重い。とはいえ世間でよく聞くより軽く済んでいるみたい。

しかしだるいことに変わりはないので、バイトがないことをいいことに一日中ベッドの上でゴロゴロしていた。
僕の寝室は二階。車もあまり通らない田舎なので虫の声がよく聞こえていい気分だ。
そんな中でチリンチリンと軽い鈴の音が聞こえてくる。
最近、犬の散歩中に見かける子猫だろう。最近ここらへんにやってきたと思われる。よーく散歩しているし、人間と老犬のペアに大しての警戒心もそれほどない。かわいい小さい子である。

そんな子が散歩で我が家の屋根でも歩いているんだろうか。

 

 

小さい子猫にはどんなふうに見えているんだろう。
車でどこかに出かけて、1時間後に腕に小さいシールを貼り付けて帰ってきて、翌日ずっと寝ている。老犬の散歩もいつもの人間ではない。
自ら苦しい思いをするなんて馬鹿な生き物だと思われているんだろうか。まあそれでいい。後でラクするためだからね。

そういや猫は病気にかからないのかしら。流行り病もありそうだけども、大丈夫なのかしら。我が家の犬もほとんど病気にかかんないし。
室内犬じゃないからたくましいのかもしれない。
ということは我々も「快適な」室内を忘れて、一日中外で過ごすようになれば健康になれるのかしら。

 

 

健康っていったい何だろう。
死にたくないからワクチンを打ったわけだし、健康のためにランニングとかする人もいるわけだ。でも室内で生活をしたほうが快適である。雨も回避できれば、灼熱をやり過ごすこともできる。快適になるとそれに委ねるようになって病気になりやすくなった?
健康に生きるということは、簡単そうに見えてそうでもないのかもしれないわね。

 

とにかくこれ以上悪くならないといいな。ワクチンとはいえ、しんどいのはしんどいからね。

〈1098.ワクチン〉

9月29日。

 

ワクチン二回目完了。
これで重症化するリスクが軽くなったわけだ。ありがたいもんだ。
そしてわが群馬県は、9月中に完了することで抽選に挑戦することができる。ありがたいね。車はあたらないだろうけど、旅行券ならありがたいわな。
しかしながら、油断せずに行きましょう。マスクと手洗い・消毒は忘れずに。

 

 

しかしながら、仮に2年後とか3年後とか、もっと先かもしれないが、某感染症が完全に収束したとする。そしたら、マスク・消毒はしなくて良くなるのだろうか。スーパーの出入り口に消毒液はおかなくて良くなるんだろうか。

 

たぶん、それはないんだろうな。
インフルエンザが流行しなくなったのはマスク・消毒のおかげだとか。某ウイルスのおかげで、他にも隠れてしまったような病気があると思われる。

マスクのデメリットは、息苦しさ・暑さの不快感である。消毒液のデメリットは、人によっては肌荒れとか、スムーズな行動が制限されること。
いずれにせよ、死にはしないし、人様に迷惑をかけることもない。我慢するのは自分だけだから。

 

会話を楽しむようなカフェとかだとマスクは外していい席、付けておく席に分かれて案内されるようになるかもしれない。どうなるかはわからないけども、完結後もしばらくは習慣になるんだろうなと思う。

 

 

あんまり起こってほしくないけども、そういうことで「市民警察」が生まれるんじゃないかとも思われる。


「某感染症後はもうなにもしないフリー派」VS「某感染症後もマナーとして付ける派閥」。マナーという言葉でひとくくりにされるといやんなっちゃうけど、僕自身はマスクを付け続ける気がするなあ。口臭に自信があるわけでもなければ、顔面に自信があるわけでもないし。この二年くらいで風邪をひかなかったし、インフルにもかからなかった。確かに息苦しかったりするけども、それよりも効果を享受しちゃってるわけでして。

 

全員に強要するのはやめてほしいけど、付ける人の数が維持されてもマイナスなことはないわけでして。

 

 

とりあえずワクチンの副作用はいまのところなにもなし。
ちょっと寝込むことも予想していただけに、拍子抜けである。とはいえ、これで命に係わるリスクが軽くなったわけだ。これが無償っていうのもありがたい。ほかのワクチンだと一回で一万円近く払わされたこともあるわけでして。

明日悪化するんだろうか。ともあれありがたいね。

〈1097.名前の呪い〉

9月28日。

 

最近話題になっている「○○県産」の農産物について。
某氏はロシアの某市の例をもとに、過去の事件を連想させてしまう市町村の名前を付けないほうがいいと主張していた。
これに対し、大きな反対意見があった。その市町村の努力に侮辱していると。

 

確かに名前というのはとんでもなく大きな力があるのは古くから言われている。一種の呪いでもあるとされる。名前がないものは存在を認識されない、名前をつけられると存在しなかったものも認識できるようになってしまう。
名前というのはそういう呪いの一つであるとよーく肝に銘じておくといい。

 

そのうえで、僕は某氏の意見に賛成である。名前というのは意図しない方向で解釈されるからだ。

 

 

例えば、僕が関西に行くまでの認識のこと。「淡路」というのは地震のことだと理解していた。しかしながら世の中には「淡路島」という地名があること知ると、「淡路=地震」は間違いであると知った。実際に行ってみるとなんともきれいでおいしい場所だった。知らないのは僕の問題である。

 

それが仮に世界規模の話にする。「アフリカ」と聞くと何を想像するだろう。
赤土の上で貧しいお母さんと子供の写真だろうか。あるいは援助団体が頑張っている地域だろうか。
もちろん、それも一つの側面である。しかしながら同じような現状は日本だってある。それも一つの側面である。アフリカでも金持ちもいれば貧しい人もいる。日本にも金持ちもいれば貧しい人もいる。

しかしながら「アフリカ」という名前のもと、植え付けられた「貧困」のイメージはなかなか剝がすことはできないだろう。「経済的貧困=不幸」とは限らない、もちろん大いに関係するけども。

 

 

逆に「日本」と聞くとどうイメージするんだろうか。それは僕たち日本に住む人たちが意見するところじゃない。イメージは独り歩きするから。
ケニアの学生に聞いたら、「ヒロシマナガサキ」と言われた。都会の大学生にも、田舎の小学生にも。たまたまかもしれないが、彼・彼女たちにはそういうイメージを日本に持っている。

仮にその人たちの目の前に「広島のお米」と「日本のお米」といったらどう違った認識をするのかはわかってもらえると思う。
70年が経ってもそういうものである。10年経っても、世界が抱くイメージは残念ながら変わらないだろう。ネガティブな情報はしつこいんだ。

 

 

しつこいからこそ、尋常じゃない努力が必要なのはよくわかる。その努力が報われにくいこともよくわかる。
しかし、名前が持つイメージの呪いは解くことはなかなかできない。不倫した芸能人の復帰が難しいことにも通ずるかもしれない。

とにかく、名前は大事である。大事だからこそ変えたくないのかもしれないが、変わりにくいからこそ戦わなければならない。

 

 

現地の人たちにはジュウゼロで応援する。だからこそ、厳しい現状があることにも向き合わなくちゃならない。きれいごとだけで解決できないのも事実。頑張ろう。