前回のもんじゃの記事をみんなはみたかな?
<382.僕の感情分析>
概要をさらっと説明すると、セネガルに滞在中のもんじゃは現地の人からチャイニーズと呼ばれることがあると
そのとき彼は嬉しくないそうだ。
まあ、当たり前だわな
なぜムッとしたのかは分析好きな彼らしく、これまたふかくふかーく分析されている。
ところで、自分にも同じような経験がある。
3年前、フィリピンのセブ島というところで1ヶ月くらい住んでいたときのこと、当時の僕は街中をふらついていた。
すると、軽トラの荷台に乗ったあんちゃん達からブォーンと通り過ぎる音とともに、
「コリアン!」と大声で叫ばれたのだった。
とっさに、「アンニョン!キムチ!」くらい返して、驚いた反応を見てみたかったと後に後悔した。
だが反して、当時の自分はひどく狼狽し憤慨し最悪な1日を過ごしたのを覚えている。
どうして、あの時の自分はムッとしたのか?
数年が過ぎたがそれらしい答えというものは出ていない。
だが、少しだけそうなのかなと思う節はある。
ドクドクと脈打つ自分という生物を無機質なもののひとつとして扱われてしまったことに憤りを感じたのではないか。
民族という無機質な意味上のくくりで呼称されたいち人間に対して、その人の中身であるとか、好きなフルーツだったりとか嫌いなお酒や何故か落ち着く匂いだとかはどうでもよいのだ。
あの教室の前に座ってる人。帽子を深くかぶった人。いつも笑ってる人。友達の友達。このまえ新しく来た人。中国から来た人。
ではなく、
チャイニーズ、モンゴリアン、アメリカン、ブディスト、イスラミク、あいつ、それ、そいつ。
どっちのほうがマシ?
この問題の根底にびっしり張り付いているのは、シンプルな人種差別だと思うがその階層の上には
民族、国籍、宗教、肌の色などの「大枠」という、意味上でも"くくり"でしかないぶっきらぼうで無機質な呼称で指をさされ、モノやコトの意味で扱われたこと。
そして、ステレオタイプを押し付けられたことによるアイデンティティの否定という結論まで拡大解釈に至っているのだが果たして大丈夫だろうか。
たぶん、どこの国の名前で呼ばれても大した差はなくムッとするだろうと思う。そういった意味では僕自身に人種差別する意図はないことを言いたい。
おい、〇〇人!
もはやそう言う人たちには教養がない人なんだなと哀れみ、同じ目線で対話することを諦めるに他ならないと思っている。
僕の対処法も諦めて、自分を知ろうとする人に尽くすことそれだけ。