さて。今日はちょっと難しい話だ。
死後の世界の話をするくらい難しくて、それでいてワクワクする。
キーワードはこの二つだ。
・ハードワーク
・自己肯定感
そして展開はこうだ。
0.はじめに
1.メンタルが崩れるまで
2.お手軽肯定感の正体
3.適切な肯定感を求めて
4.マトメ
これでいくぞ。よし。頑張るぞ。
今日は長くなるかんな。覚悟しとけ。
。。
《0.はじめに》
なんでこんな話をはじめるのか。そこからいこう。
僕と親しくしてくれる人がいる。その人はなかなかのハードワーカーで僕とは正反対だ。その人を見て僕は休め休めと言う。しかし、その人は"休むべきだとは思うが…なぁ…"、という感じだ。
ホウチガメンバーの岡島みっきーなんかもそんな感じだ。岡島もよく、忙しくしてないとヤダとか言ってバイトと研究とで、僕みたいにふらふら散歩する時間をケチっている。
そこでだ。
なにが不健全なハードワークなのか、考えてみようじゃないかと思う。
今回したいのは、過労死問題とかそういう難しい話じゃなくて「ハードワーク」と「自己肯定感」はどういう関係にあるのかを考えてみようということだ。
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さらに前置きになるが、こちらの文章を読んでいただきたい。
「ご自愛する」という戦い方|Tsukioka Airi|note
Tsukioka Airiさんの『「ご自愛する」という戦い方』という文章だ。
無礼承知で要約させていただく。
Tsukiokaさんは働きすぎで2ヶ月会社を休むことになった。その期間に働きすぎた時代のことを振り返り『ハードワークや深夜残業によって得られる自己肯定感は麻薬だ。「頑張ってる感」がお手軽に得られてしまう。』という考えに至った。
そして元気に生きるためには健康だとしている。しかし『「ご自愛する暮らし」はゆるふわスローライフではなく、強い精神力とマネジメント力を要する戦いである。』とも考えていらっしゃる。
もっと掘り下げてある点もたくさんあり、非常に面白い文章なのでぜひ読んでいただきたい。こちらを読んだ上で考えてみたい。
。。
《1.メンタルが崩れるまで》
ハードワークでメンタルがダメになるのはどうしてか。そのメカニズムからフワッと考え始めてみる。
仕事のしはじめは楽しい。
知らないことをどんどん知ることができるし、褒められたりお礼してもらえたりする。他の人のがんばりをみて、もっとやろうとか、俺もがんばってんな、そう思える。
それがだんだん慣れてくると、褒められるとかお礼を言われるは少なくなる。だって仕事だもの。やって当然、むしろ前提になってくる。
すると「お手軽肯定感」のみが救いとなってくる。
やってるから許される。やってるんだから僕はがんばってる。
そういう気分だ。
『簡単ブラック化!』はこういうこととしておきましょう。
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《2.お手軽肯定感の正体》
さて。ハードワークでメンタルが崩れるまでの流れはわかった。色々肯定感を得られていたのが「お手軽肯定感」のみに頼ると崩れる。
ここで問題なのが、「お手軽肯定感追求」の中身だ。
あいや待たれい。そもそも「肯定感」ってなんだったか。ふわふわしたまま使いがちだな?
文部科学省の「自己肯定感を高め、自らの手で未来を切り拓く子供を育む教育の実現に向けた、学校、家庭、地域の教育力の向上(第十次提言)」というめちゃ長い提言書だと、
"勉強やスポーツ等を通じて他者と競い合うなど、自らの力の向上に向けて努力することで得られる達成感や他者からの評価等を通じて育まれる自己肯定感と、自らのアイデンティティに目を向け、自分の長所のみならず短所を含めた自分らしさや個性を冷静に受け止めることで身に付けられる自己肯定感の二つの側面から捉えることが考えられます。"(15ページ目4段落)
としている。
つまり肯定感は、
1.努力で得られる達成感や他者評価の自己肯定感(→客観的肯定感)
2.自分らしさや個性を受け止めて得られる自己肯定感(→主観的肯定感)
の二つあるということだ。
なるほど、お手軽肯定感は先ほどの定義で言うと1のほうである。お仕事して、他の人と比べて自分はどうだ?そうやって得るのがお手軽肯定感だったと思う。
では、これはすべて悪なのか。そうと決めつけきれないところもある。なぜなら、適切な競争や評価は自己肯定感を育んでくれる。お手軽肯定感はそれが「適切でなくなった時」に問題になるだけだ。
では「適切でなくなった時」とはいつだろう。これがわかったらたぶんブラック化を回避できるだろう。そして今回の議題の終着点もここになる。
しかしながら、これは研究書でもなければ文庫本でもない、ただのブログでありエッセイみたいなもんだ。ここからふわふわしだすのも勘弁してくださいな。
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《3.適切な肯定感を求めて》
「適切でない」のを「お手軽肯定感のみで自己肯定感を賄っている状態」だと考える。
逆を言えば、「適切である」のは「お手軽肯定感以外でも自己肯定できている状態」である。つまり、上の定義の1の客観的肯定感だけでなく、2の主観的肯定感も得ている状態だ。
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〈客観的肯定感とは〉
客観的肯定感は、社会的肯定感とも言えると思う。自分以外の誰かとの比較や評価は社会的動物として得ることができる肯定感だ。逆に言えば、人間として生きている限り、間違いなく社会的肯定感との距離感を推し量りながら生きていかなければならない。
仮に引きこもったとしよう。それでも人間として生を受けてしまったら、「本来なら仕事しなくちゃいけないのに…」というように、社会的肯定感は削られる。
つまり多かれ少なかれ、客観的自己肯定感は誰しも関係しているのだ。
お手軽肯定感の正体は、この客観的肯定感のうち、会社での自己比較とか他者からの評価で満たされた肯定感だ。会社での頑張りってそういうものだもの。
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〈主観的肯定感とは〉
しかしだ。主観的肯定感はどうだろう。自分らしさを受けとめて得られる自己肯定感。
なかなか得るタイミングがないぞ。
比較なし。競争なし。そんな環境なかなか作れない。というか存在するのか怪しい。比較しなけりゃそもそも長所か短所かもわからないからな。つまり、比較有りだけど、比較の結果よりも比較して得た情報に意味があるということだ。
「尺度を自分で決めた上で、比較して得る肯定感」そう定義し直す。
尺度を自分で決める、の例を示す。
幸せか?の尺度を、「お金のあるなし」に注目すればコンビニアルバイターは幸せじゃない。しかし「自由時間のあるなし」に注目すれば超幸せだ。
尺度を自分で決めるっていうのはそういうことだ。
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〈過激な肯定感〉
自分が肯定できるかどうか。
つまり、自分が生きててヨシとするか否か。
これを社会の尺度のみで測るとなかなか大変だ。社会でヨシとされるのものは刻々と変わるし、なにより社会ってなんだっていう問題にも突き当たる。少人数が言い出したものがいつのまにか当たり前になってたり、迷信が真実に変わりうる世の中だ。
その世の中に自分の生の尺度を当てはめて得られるのは、社会(全体ではなくあくまで自分の身の回り、類は友を呼ぶ社会)に適応できているか否かの結果である。
自分が生きててヨシとするのは適応できているからなのか。
ではこれを自分の尺度で生きててヨシ、と決めたとしよう。
街中で野糞をしてもそれは土の栄養になるからいいのだ。超過激な土大好き人間になったらそうなり得る。土の良し悪しが尺度であり、他はどうでもいいのだ。
いや、自分は幸せかもわかりませんが、それはちょっと人間として生きるのを辞めていらっしゃるとしか思えませんね…。そういう感じです。「ワガママ」。そういうこと。
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〈適切な肯定感〉
つまり、良き人間として生きるためには、客観的肯定感も主観的肯定感も両立する必要があると僕なんかは思います。どっちかに偏るとなかなか大変な人生になるんじゃなかろうか。
ハードワークを始めると、どうしても時間がないから主観的肯定感を得るタイミングを失うんじゃないかしら。だから仕事しながら得られる客観的肯定感、お手軽肯定感に依存することになる。すると、自己肯定感が不健全になって病む。そもそもハードワークっていうことがかなり狭い世界に閉じこもりがちだから、他の客観的肯定感も得にくいよ。なによりも主観的肯定感が足りてないよ!
なので、Tsukiokaさんは大変だけどマネジメントして健康を保つことが必要だという考えに至ったんじゃないかと思う。
これは「自分の健康を保つ=主観的肯定感"健康"の尺度を持つ」っていうことだと僕は解釈したことによります。
自分の健康を保つって、自分を大事にするっていうことの根本的なところだからね。これは最もな主観的肯定感だと思います。
でもこれが難しい。ともすれば社会に委ねてしまうからね。そして、ともすればワガママになるからね。
『「ご自愛する暮らし」はゆるふわスローライフではなく、強い精神力とマネジメント力を要する戦いである。』
そういうことだ。
。。
《4.マトメ》
・自己肯定感は客観的肯定感と主観的肯定感がある。
・客観的肯定感に偏った状態がお手軽肯定感追求。
・主観的肯定感に偏るとワガママなだけ。
・ハードワークしつつも、ちゃんと自分の尺度で主観的肯定感を確保すると病まない。
・「自分の健康を保つ」は一番の主観的肯定感なのでは。難しいけども。
。。。
ということでおわり。
あくまで僕が勝手に考えたものなので、アカデミックなものじゃないです。探せばちゃんと分析されてるだろうから、ちゃんとしたのはそこから探しましょう。
ハードワークはしていいと思うわよ。してもいいけど、自分が大事なところは見つめ続けるべきだとあたいは思うわけ。
自分の尺度はどうやって見つけるか?なにが幸せか考えなはれ。とりあえず健康第一でええやん。