〈606.ことば観〉
5月26日。
自戒を込めて、考えたい。
文字として残る言葉について。
。
ひとりでいる時は、言葉の使い方にできる限り注意を払っているつもりだ。
あまり強い言葉を選ばないし、強いインパクトのあるコンテンツも出来る限り選ばない。というのは、現状の僕では責任を負えきれないからね。
強い言葉・強いコンテンツは当然魅力ではあるんだけど、その分長い期間影響力を持ち続ける。
そういう手に出しやすい強さには走りたくない。そういう信条的なものがある。できたのは比較的最近なんだけども。
。
しかし、誰かといる時だったり、バタバタしてる時なんかは言葉選びが雑になる。
頭のキャパシティの何割かしか使えないから、自分中心の直感的な言葉になってしまう。
これは深く反省しなくちゃいけない。その適当な瞬間に相手は適当じゃないかもしれない。だがそれに気づくことは、その瞬間にはできていない。
癖になるまで考え続けなければいけない。言葉はそれくらい素晴らしいものであり、罪深いものである。
。
SNSを見てて、好きな漫画家さんがこんなことを言っていた。
「嫌いという言葉は使わない。直接的すぎる。
苦手という言葉に置き換える。」
まったく同じ考えだ。
嫌いという言葉は全否定になる。顔を背けるように。だが、苦手という言葉は遠くからではあるがこちらをみているような、物陰からそっと見るような、そういう感覚がある。「苦手」には、自分も悪いと思ってるんですがね、みたいな。
。
典型的な「意識高い系」と言われる人が近くにいる。その人と週に一度か二度、話す機会がある。そうしていると、この人を苦手に思う理由がわかってきた。
自己否定というとネガティブだが、自己反省と言い換えたらいいだろう。自己反省、自分を疑うことをしない人。この特性が僕と相性が良くないのかもしれない。
たしかに知識量は素晴らしいし、議論の進め方もうまい。ぜひともその能力をいただきたい。
しかしながら、僕たちの指摘に対してはまるで届いていないかのようだ。
そうなると、議論しなくていいかなと。
めんどくさくなる。
。
何度でも言おう。
相手の行動を引き起こすのは、多くの場合自分に責任がある。直接的になくても、自分が悪かったと考えることが十分にできる。
そしてなにより、相手に対する敬意を失ったら、相手からの敬意も受け取れなくなる。
言葉というのは、その唯一で絶対的な方法だ。だからとにかく慎重に使わなくちゃいけない。
とても難しい。毎日毎日失敗ばかりだ。嫌になってくる。だとしても、わたしとあなたの関係である限り、付き合い続けなくちゃいけない。
言葉は難しいんだぞ。
特定の人物に当てている文章もある。だとしても、その本人はおそらく気付いてない。そんなもんなんだ、人間の認識能力は。気づけないんだ!
これは僕も同じくだ!自分事として考えられないんだ!
だって、自分を疑ったら、自分が崩れるもの。
だからこそ、真に強い人は自分を疑える人だと思うんです。
そういう人間になりたい。
。
この考えはある人からのほぼ受け売りです。
その人が発信した時、だったらその考えも疑えよと批判されてました。僕はこの批判の意図がつかめなかった。建設的な批判じゃないのは、自己顕示か自己承認欲求が生み出す一方的な攻撃に過ぎない。あなたのための意見だったろうに、それを気づかないのは残念だ。さぞかし気持ちよかったろうな。
。
強い言葉を避けるというのは、相手への敬意を忘れないことにもなるんじゃないかしら。それでいて、自分の言葉にも常に懐疑的でいるため方法にもなると思う。
相手にわかる言葉で伝える。価値観の違いは当然あるけど、それを乗り越える努力をし続ける。このことに意味があると思うんです。乗り越えようとする心意気は言葉と同じく伝わると思う。
やさしくなりたい。
。
戦闘力47日目
398(+11)
勉強+6
その他+5
強い言葉を使う人、自分を信じて疑わない人と一緒にいるのは、「僕にとっては」とにかくストレスだ。そして自分が嫌いになる時も同じく、僕が強い言葉を使った時だ。言葉っていうのは双方向的な場面もあると思うぞ。
死んだ友に謝りたい。