1月5日。
ひさしぶりに、憧れていたコピーライターの文章を読んだ。
やっぱりそういう人が書く文章って、引き込まれるし、その人の匂いがしない。ようでする。
他の人の文章と比較すると、やっぱり違っている。
いったい何が違うんだろうか。
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その人はもうおじいちゃんの年である。
だからこそなのかもしれないが、文章に余裕がある。
がつがつとした主張はなく、目に映った人や景色をどうやって受け取ったのか、のんびりと書いている。
そしてどこか人生に諦めやはかなさを感じていると同時に、だからこそ楽しもうというような気概がある。
悲しい話をすることもなければ、怒りもない。
人の死を惜しむことはあるけども、それはそれとして仕方のないことだというような雰囲気である。
良いおじいさんの文章である。
やっぱりこういう文章を美しいというんでしょうな。
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文章を読んでいると、「僕はこう思う」という書き方はしていない。
主語はほとんど出てこず、ただの独り言である。
伝えたい!という明確な意思はない。
だからこその余裕なのだろう。
主語が明確に使う人は、一生懸命で必死である。
それを悪いとは言わないが、相手のことを考えてみるとはた迷惑にもなりかねない。
なによりそういう話は興味がなかったり疲れたりする。
「僕は電車の遅刻のせいで今日の仕事に遅れました。」
「電車が予定通り動かなかった。それでも日本の電車はよく復帰をするもんだ。」
こういう視点の違いがある。
これはもう年を取ったからこその余裕と言わざるを得ない気がする。
視点は自分だけども、自分の因果関係については言及しない。感情は述べるけども、全てへの敬意がある。
そういう感じである。
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文章から感じる諦観というか儚さというのは、ある種の達観によってもたらされているのだろう。
全てへの敬意が滲み出るのは、自分という一人間の小ささを知っているからだろう。
そういう渋い文章は、読んでいて落ち着くし、安心する。
生きてて良かったなあと思えたりもする。素晴らしいね。