5月29日。
人間の開発で最大のものは言葉だ。
そういう話を聞いたことがある。確かにそうかもしれない。人間以外の動物も、コミュニケーションはとるかもしれないが、こんなに細かく言葉を作り出して、物事を伝えたり感情を伝え合ったりするのは他にいない。
それぐらい大量の情報をやり取りするんだもの。文明も発達するわね。
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最近は毎日毎日小難しい文章を読み続けることになっている。
「〇〇はこう言うが、△△はああ言った。」なんていう文章を読むと、〇〇さんはこういう考え方をする人間で、△△さんはああいう考え方をする人間だ、と一種パターン化させていく。
書いたもので、人間を想像している。判断している。言葉というのは、人間を象徴するようにさえなっている。
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これは小難しい論文の書き手だけじゃないのはわかるだろう。文章というのが、いやもっと適切なものでいえば、言葉というが、人間を象徴しているのであり、むしろ言葉によって人間側が決められてくる。
LINEの一言でさえ、Twitterの100字足らずの文でさえ、人間像が現れてくる。こんな1000字なんかを毎日あげていればもっとかもしれない。
この毎日の文章が、読み手にとっての私の像である。しかしながら、その書いているという行為によって、私も私が見えてくる。
一気につくりあげられるわけじゃない。ほんの少しずつ少しずつ、アリが集めてきたカスが大きくなって処理にめんどくさくなってくるみたいに、私という人格がつくりあげられていく。
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言葉が人格を左右している。支配されている。
それを逆手に取る手段も大いに存在する。仮に僕が毎日死にたいとここに書き続けたら、おそらく600日経ったいまごろはいかに簡単に死ぬことができるかを考えているだろう。いや、もはやこの世にはいないかもしれない。仮に毎日毎日熱血な言葉を書き続けていたら、おそらく今頃、必死に勉強なりなんなりし続ける熱血感になっているだろう。
言葉に支配されにいく、という主体的に受け身になる方法がある。
それをうまく使う人間というのが、随想家というやつなんじゃないだろうか。
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エッセイストと言ってもいい。もちろん、彼彼女たちは、ちゃんと思いがあるうえで書いているひともいるだろう。
しかしながら、曖昧な感情だけど言葉にしてみたらけっこういい気持ちだから完成させて発表してみた。そうしていくうちに私という人間像ができてきた、なんていう人もあるだろう。
小説なんかはそれが激しいかもしれない。言葉で一人間の感情を書き出していくうちに、私と主人公の境界があいまいになってくる。なんて。
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言葉に触れる、綴るっていうのは一生を変える大きな要因になるだろう。
だからこそ、言葉は大事に使っていかなきゃいけないし、なにより良い言葉に囲まれて生きていきたいものだ。
過激な言葉を使うのは、一瞬にはいい気持ちなのかもしれないね。
しかしながら使い続けてごらんよ。気持ちも過激になってくる。疲れるだろうな。でもそれに気づくことはできない。それが言葉の力だから。
それがアイデンティティになってしまったんだから。
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戦闘力50日目
418(+5)
勉強+4
運動+1
研究者になる人間がいるのもわかってきた気がする。ようやくその世界を理解できそうになってきた気がする。ならんがね。