6月4日。
若干昨日の話の続きになる。
アイデンティティの話。
私たちは常に自分の体と一緒にいる。目に見えるものとして体がある。当然だけども考えていることは目に見えない。
体の変化はすぐさま気付けるけども、考えていることの変化はなかなか気づかない。目に見えないもの。だからこそ、「〇〇人」という一言で表せるような、自分自身の拠り所があるのとないのでは、心の浮つき具合が違うんじゃないかしら。
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〇〇人っていう〇〇は典型的な国籍が入る人もいるだろうし、会社名でも学校名でもなんでも好きなものを入れるがいい。そして、その〇〇にまとめられるようなことは、一人ひとつじゃないのは簡単にわかると思う。
僕は日本人であり、京都人であり、群馬人であり、テニス人であり、大学院人である。
アイデンティティという言葉より、人格という方がわかりやすくなるかもしれない。僕はたくさんの人格を操っている。
どれが本当の自分、というわけでもなく、すべてが自分。それを統合するわけでもなく、場によってちょっとずつ違うだけ。
というのも、場によって相手が異なる。相手に合った(適切かどうかではなく)自分を選び出すことでコミュニケーションをつくる。
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だけども、そのひとつひとつの人格も絶えず作り直されているんじゃないかしら。
例えば、昨日まで仲良くしてくれた友達の阿部くん。今日喧嘩してしまった。なので次会うときは、不機嫌な自分あるいは反省している自分から切り出していく。
一定の自分がいるわけじゃないし、喧嘩っていうわかりやすいイベントがなくても、もっとミクロに見ていけば言葉一つ一つで自分をつくりなおしているんじゃないか。
研究的な言い方をすると、「それまでの相互行為をもとに人格を決定するが、同時にその生活経験の蓄積によって再生産され確立され続ける」のが、人格なんじゃないか。
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さて話を〇〇人に戻すと、たくさんの人格を僕らは常に持っていて、場に応じて切り替えていく。ある特定の場では、人格のうち一つを持ってきてそれとしてふるまう。その人格というのも常に壊され、作り直していく。
ここで考えたいのは、人格一つを引っ張ってきても脳みそは一つなので、一つの人格で受けた影響が他の人格にも影響しているんじゃないかということです。
さっきの例をもってくる。
阿部くんと喧嘩した夜、阿部くんを傷つけた言葉「鼻くそは食べるとイクラの味がする」という自分の決め台詞を改めようと考える。その結果、実家で毎日言っていた「鼻くそは食べるとイクラの味がする」を言わなくなった。
実家という人格の場でも別人格でそれまで作り上げてきたなにかを打ち壊したので、こっちの人格でも改めようとしている。
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とまあ長いことベラベラと考えてみたわけですが、言ってしまえば当然の話です。まったく人格を使い分けることのない人はいないですし、一つの小さいイベントで自分の全てが変わった、ということもあるでしょう。
だけども、その人格は流動的なんでしょうな。〇〇人というのは常に変わっていく。言葉自体は変わらないけど、認識とか言葉の意味はいつも変わっていく。
だから、自分はなんだったかを問い続ける作業が終わる日はないわけです。
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戦闘力56日目
464(+5)
勉強+1
その他+4
諸事情であんまり本が読めなかった。荷造りできなかったんよ。