6月28日。
僕の研究は、大風呂敷を広げてしまえば観光社会学になる予定だ。そのなかのダークツーリズムというものを掘り下げる。
ダークツーリズムという言葉が日本で話題になったのは東日本大震災以降だ。被災地を観光地化するか否かの議論の中で注目を浴びた。それ以前から日本にはダークツーリズムの場はたくさんあって、有名なものといえば原爆ドームやひめゆりの塔だ。そういう、暗い過去を有する場所への観光が僕のテーマになる。
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最初はセネガルに行って、なんとなくおもしろかったところがダークツーリズムの場であったからだ。他意はなく、単純な興味だった。
帰国して永遠に論文を読み続けているわけだが、これがまたおもしろい。いろんな土地にいろんなダークツーリズムがあって、いろんな歴史とその解釈がある。最近はそのダークツーリズムの場に住む人たちがどんなふうに思っているのか。これが気になっている。
この興味もなんとなくだったけども、今日読んだ論文でようやくその理由がわかった。僕の場合は場を有していないけど、一人の語り部としてどう生きていくのか、その参考が知りたかったのだろうと思うのです。
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語り部というのは、凄惨な過去を現代に伝えるのが役割として持っているのは想像の範囲内だろう。しかしながら、それがその人単体では全く意味はなく、ダークツーリズムの場が存在しなければ意味がない。つまり、場に絡めとられた存在として語り部がいる。
しかし、場があるだけではただの廃墟になってしまう。語り部によって意味づけされ、それを知ることがダークツーリストの目的なのだ。
そして、その意味づけがされた過去を話すということは、話がすべてを伝えるわけでもなければ、そのうちダークツーリストに寄り添った、ツーリストの欲に沿った語りがなされるようになる。
例えば、何十人もあなたの中学時代の暗い過去をインタビューに来たとしたら、きっとあなたは3-4回目のインタビューで紋切り型の語りになるでしょう。インタビュアーがほしい情報がわかってくる。いや、むしろインタビュアーが予想しなかった解答を用意するかもしれない。そういう意外性すら脚本ができてくる。
これがいいことか悪いことかは判断できない。
語り部はそうやって癒しを得るものかもしれない。
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しかしこれは時にグロテスクにもなりうる。死人に口無し。勝手に解釈され、物語になされるだけだ。
そういうことで、僕の研究は死を生者はどう受け止めるべきか、これについての指針が欲しくて始めたような気がする。そしておそらくそれがわかったときに僕は役目を一つ果たせるようになると思う。
物語にしてもいいのだろうか。命の消費になってしまわないか。
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戦闘力80日目
617(+3)
勉強+2
その他+1
ひさしぶりに飲みすぎた。僕はいったいなにをしていただろうか。楽しかったことしか覚えていない。