9月15日。
唐突に蘇る過去の記憶がある。ほんとにドラマみたいに。
スタバでコーヒーを飲もうと、開けたストローを加えた瞬間におそらくあれはフィリピンのマニラのスタバ、が蘇ってきた。
スタバというどの国でも大抵同じデザインなのも理由だろう。奴隷貿易についての研究書を読んでいたこともあるかもしれない。マニラの貧富の差が激しいエリアに包まれた気がした。
ああ、平等じゃあねぇやなぁ。
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大学3年の夏、フィリピンにゼミ研究で行った。はじめての発展途上国。打ちのめされて帰ってきたことは言うに及ばず。教育を志していた青年は、マニラのこどもたちが伸ばしてくる手を振り払うのがとてもしんどかった。日本に帰国したときの安堵と言ったら、地獄から帰ってきたかのようなものだ。
彼らの厳しい生活と、スタバでコーヒーを楽しむ自分。それを肌で感じていたうちはいいけども、帰ってきてしまえば特に思わなくなってしまう。だが、同時に抜けない針のように、知ってしまった者の義務としてなにかなさなければならないという痛みはずっとある。
そう、「する-される」の関係だと思ってしまっている。なんともまあデカい態度だと思う一方、選択肢の幅と抱える問題のレベルという点でも平等ではないよ、やっぱり。
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話を奴隷貿易にうつす。
悲惨な話がある一方、けっこうあたたかな話があるのが奴隷だ。よく話されるように労働させられたり、厳しい刑罰を与えられたりっていうのはあるんだけども、同時に『商品』であるうちはちゃんと扱わなきゃならない。そして、買い取った家庭との相性が良ければ仲良くなって家族の一員になれる。
しかし、自己決定権が非常に限られた範囲にしか及ばない。これが奴隷であるということだ。行動はほぼ決められており、その中でどんな結果を出したところですべて主人の財産になる。
マニラの道のこどもたちに、主人はいないし決められた労働があるわけじゃない。しかし、自己決定ができる範囲はとても狭い。
社会の奴隷、ということだろうか。
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そんな簡単に言える問題じゃあないし、じゃあ僕は社会の奴隷じゃないと言い切れるかと問われれば、はいと即答できるわけじゃない。
ただ、豊かさというのは選択肢の幅があることであり、選択肢の幅があれば当然のことながら経済的な豊かさも心理的な豊かさも得られる。
選択肢が多く与えられるというのは幸せだということだろうか。選択肢が限られていたら不幸だということだろうか。
そうとも限らない気がするなぁ。
道で寝起きするマニラの子たちと、僕。どっちが幸せか、平たく考えれば僕のが恵まれてるから幸せだということになるかもしれないけど、「恵まれている=幸せ」とは言い切れない。
自分で稼がずとも飯をもらえる奴隷と、毎日街の様子を伺って、商売に気を張りっぱなしの主人。どっちが幸せかなんて当人にしか判断できないし、なにより比較してどうこうするのは意味がない。
結局本人がどう捉えるかだけな気がしてくる。
じゃあ、教育とか支援とかって余計なお世話ってことになるの?機会は平等に与えるけど、それを選択するかはすべて本人の主体性に任せちゃっていいの?
自分のことは自分が一番わかってる、なんて戯言だとも思える。
幸せってなんだろうな。
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戦闘力159日目
1099(+5)
勉強+3
その他+2
いまの僕は幸せだと思う。
ただ、これ以上の幸せはないということじゃない。もっと幸せになれる。
マイナスをプラスに持っていくんじゃなくて、何もないところにプラスを掘り出すみたいな幸せもあるわけです。
際限がねぇぜ。