ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈714.例の問答〉

9月11日。

 

有名サイトではないので、やや攻めた考察をしよう。答えを出すことができていない「なぜ人を殺してはいけないのか」問題。

なぜなら今日は9.11だもの。当時幼稚園児だった僕は記憶にまったくないからこそ。

 

 

今日、友人にこの問いを立てた。なぜ君は人を殺してはいけないと思うか?

その友人は教えてくれた。

「人の時間を奪うことは最大の罪だからじゃない?」

つまりこういうことだ。

他人の予定を潰して、自分の時間とするのは悪いこと。その最たるものが殺しである。

なぜ他人の時間を奪うことは悪なのか。

その友人は、成長することが生きる意義だからだと述べていた。

 

時間を奪うことの罪について考えよう。

 

 

相手の時間を奪うことを一種の窃盗だとする。時間泥棒。そして、その窃盗物は恐ろしいことにどんなものにでも変化することができる。

大金にすることもできれば、なにも作り出さないこともできる。自分自身を慰めることもできれば、他人の感動すら作り出すことができる。

その未知の塊が時間である。

なので、単純に鉛筆を盗んだというような現物よりもたちが悪い。価値が未知数なので、それを盗んだ際の罰がわからない。

 

他人のものを盗む、しかしそのものは未知数の可能性を孕んでいる。となると、与えるべきは最大の罰にせざるを得ないと考える。というのも、仮にその盗まれたものが1億円とかそれより貴重なものかもしれない。もちろん一方で5円チョコ並みの勝ちかもしれないが、大は小を兼ねるである。

もちろん、このものが時間であり、時間・分・秒という指標があるので、ある程度その価値の推測ができないわけでもない。ある程度その環境や前後関係を考慮した上で罰を与えることになるだろう。

もちろん、そのわずか5分が後々の人生に多大な影響を与えることは往々にしてある。なので結局、最大の罰を与えざるを得ない。

信頼の喪失である。社会的動物人間にとって最大の罰である。

 

 

それでなんで殺しちゃいけないのか。

時間という概念で考えれば、その時殺されず、生きた分生み出した価値を奪ったことになる。その価値はとんでもなく大きなものになる。

そして、その価値は動物種の保存という生物学的観点からも損失になる。

 

 

しかし、殺されることで失った価値は大きなものなのか。何十億人もいる地球のうち、ひとり死んだところでなにが変わるのか。

もちろん、一人死ぬことでその周囲に波紋が広がる。しかしある程度時間が経てばその波紋は消えてしまい、なにもなかったかのようになる。

 

この価値というのはなんなんだ。

 

 

ロッコの思考実験は有名だ。

猛烈なスピードで疾走するトロッコがやってくる線路の分岐点にあなたはいる。分岐点のレバーをどちらかに倒さなければならないが、線路の先には人がいる。二手に分かれたどちらかは犠牲にしなければならない。さあどうする。

命の重さをなにで決めるのかという話だ。

ロッコの思考実験では、人の数やその人の性格などが当てられる。そしてどういう人間が生きるべきかを考えることになる。

 

民主主義ならば、命の数で救うべきほうを選ぶべきだろうか。

しかし、家族や恋人を失うことはあなたを不幸にする。

 

なるほど、ここでは価値というのを「幸せの種」と理解しよう。

あいや、そしたら「生きる価値=幸せになること」ということになってしまう。幸せになるのは誰しも求めるが、それでいいのだろうか。なにか思考停止している気がする。

 

 

うーむ。

問いは「なぜ殺しちゃいけないのか」。

ならば、「なぜ生きるのか」という反対の問題の解答を得ることから考え直そう。

生物学的にいえば、種の保存のためである。子孫を残すことが個体が生きる理由である。なので水族館のオットセイも、自由がなくとも生きることに不便はない。生きる不便がなければ機会を得られれば子孫を残すことができる。

 

しかし、人間はもはやその領域にはいないと思う。単純に性交をし、子供を産めれば個体の役割が終わりではなくなってしまった。

社会がやたら文明を生み出してしまったので、生きるために仕事をしなくちゃいけなくなった。仕事をするためには社会に属さなければならなくなった。社会に属するためにルールを守らなければならなくなった。

現物ではない謎の概念を敬い、守らねばならない。権利だ。権利を行使するためには義務を負う羽目になった。メリットをあるならデメリットを背負う。そうやって社会が生きている。

生きるためには、ルールを守らなければならない。そしてそのルールに殺してはいけないと書かれている。

結局のところ、人として生きたいなら殺してはいけないという誰もが知っている答えしかなかった。

 

一生物としての正解はこういうことだ。生きるためには殺さない。

しかし、本当にこれでいいのだろうか。少なくとも僕はまだ納得がいかない。

 

次の機会があったら、生きる理由を生物学的ではない観点から問うていこう。幸せとか、価値とか、豊かさとか、そういう人間らしい話で殺しちゃいけない理由を考えたい。

 

 

戦闘力155日目

1074(+5)

勉強+3

その他+2

 

昨日の「fate/zero」は、多数を生かすために少数を殺すスタンスで正義のヒーローになろうとした男が幸せになれなかった話だった。

種の保存という意味では正解だったのに、幸せになれない。つまり、動物としての生と人間としての生は、まったくの別指標らしい。

幸せになりたいのはなぜだ。