2月25日。
せっかくなので、最近話題の「うっせぇわ」について考えてみよう。すでにいろんな人がブログとか雑誌で発信している。しかしまぁ雑誌とかだと特に批判的な反応が多いので、ちょっと嫌気がさしている。ということで、「うっせぇわ」擁護に近い形でできれば中立で進めよう。
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批判のポイントとしては、自己中すぎるという意見だったり、ぬるいという意見だったり、刺激のある言葉で内容が薄いだったり。
つまるところ、批判的に受け止める人にとっては、感情をそのままストレートに投げすぎている歌なんだと解釈した。
尾崎豊の歌と比較する例もいくつかあって、それと比較して稚拙という手厳しい意見もあった。
わからんでもないけど、それが「うっせぇわ」の原因であることが分かってないんだろうなと思う。
たしかに僕も聞いた時は激しい自己満足の歌だと思った節もある。でも、同時に年齢的にもまだまだあたしは若いので賛同できる部分も十分にある。
「オッサン」からみたら稚拙だろうけど、そりゃそうじゃんか。10代でストレートに言える環境が少ないという訴えで生まれたのがこの歌なんだからサ。そういう反応は予定通りなんじゃないかしら。
尾崎がどうとか、魂に響かないとか、それがうっせぇのだ。「オメーにだってそういう時期があったのを忘れたのか!」ということです。
「オッサン」に響かなくて当然、10代20代に響けばそれでいい。
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そんななかで一番読んでいて面白くてためになった文章は、年代間の対立は普遍的なものという譲歩を示しながら、年長者がよく指摘するような「マナー」というのは社会のなかで対人関係を安定させるものであるのでそこはええんとちゃいますのん?という姿勢の話。
そこから先の分析は的外れ感が否めないので置いておくけども、年代間の対立という文化、マナーの有用性という点はいい論なんだなあと思った。
尾崎の歌もそうだけど、結局どの時代でも老害と言われる存在がいて、それに反抗する青い若者という対立はいつでもある。その反抗手段が暴力から言葉に変化していて、それが「オッサン」からしたら陰湿に見えるから批判するんだろうなと思う。我々からしたら、暴力じゃないだけマシだろうとも思うところがあるけど、メンタル攻撃も立派な犯罪だからね。形はなにも変わってないと思います。だめなものはだめ!
そういう意味で、マナー的なもので対立を回避する能力は社会生活を送る中で身につけられるし、それが身についてないのは僕みたいな子供なんだからさ。これから身につけていく上での摩擦に苦しんでるってことでいいんじゃないかな。
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この年上への反抗心っていうのは大事にされるべきなんじゃないかしら。そうやって社会で生きることを学んでいくんだし、反抗しなけりゃちょうどいい奴隷にはなるけど、そんな社会は発展しないし楽しくないし。
こどもが「うっせぇわ」を聞いていたらどうするか。正常な成長の一環だとしてスルーするのがいいんじゃないですかね。乱暴な言葉遣いがやだっちゅー意見もわかるけども、文化に対抗ってできないからね。諦めましょう。
それよりも、そういう言葉遣いをしてはいけない場面でやった時にきちんと叱る親でありたい。もちろんそれで「うっせぇわ」と言われるだろうけど、叱られるという記憶はいつか引っ張り出されて理解される。それで叱られずにほっとかれるほうが大問題だからね。
たまには取っ組み合いに近い喧嘩でもしてる方が大人vs子供には必要なんじゃないかと思います。
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というか、そんな些細なこと気にしてる場合じゃないと思うぞ。大人は子供に常に見られてるんだからな。こどもに「うっせぇわ」と思われてる時点で、大人は怒れない。すでに大人に敬意を払わなくて良いという判定が下されてしまってるんだから。
ある程度の反抗期の後に必ず和解期があるはずだし、そのときに和解できる程度の「うっせぇわ」だったらやらせとくがよろしいのだろうと。
きちんと信頼関係が結べていれば一曲ごときに崩れるような人間性には育たないから安心して聞かせてあげてよろしかろう。
たけしだって、ヤクザ映画で社会に悪影響なんてでないっていう主旨のことばを残してくれてるじゃないか。
ちっちゃな頃から優等生の私は思うのです。
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しかしまぁ、音楽は結構いいし、声もいい声だし、ええやんって感じだけど。
この曲が有名になりすぎて次の曲が引っ張られないかが心配だったりする。他の曲がどんなものがあるか知らないので「オッサン」のお節介になるんだけども。