2月27日。
先日、「うっせぇわ」について世代間の対立は普遍なものだとしたけどもまとまりのない話になってしまった。あれからそもそも世代間対立について考えたけど、結局価値観の押し付け合いのよくある対立の一つなんだというところで落ち着いた。
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価値観の押し付け合いの最たる例は男vs女論争。男だからどうとか、女だからどうとか、正解のない論争。他にも田舎vs都会とか、きのこvsたけのことかだろう。
それの若者vs年配という戦いであり、この問題の悪質なのはお互いの良さを発揮するのではなく、お互いを見下すことで成立していることだと思う。
そしてそれをめんどくさくしているのが、年功序列的な社会だろう。日本に限らず「歳上を敬う」という文化はどこにでもあるし、それを否定する気は毛頭ない。ただし、「歳上だから敬う」ではない。歳上なら無差別に敬うのではなく、他人だから敬う。
年功序列が成立するのは、僕みたいなペーペーよりも社会経験を積んだ壮年世代のほうが絶対的にノウハウの蓄積があって成果を出せるから。
つまり、成果(業績に限らず教育力なども含めて)主義の結果、年功序列になったのであって、年功序列がありきではない。
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それと、この価値観の押し付け合い問題のめんどくさいところは、根拠が薄弱な点である。きのこたけのこ論争なら売上が数字であるし、消費者アンケートでどこがどうおいしいかのような上手い理由が見つかりやすい。
しかし、男がどうとか女がどうとか、若者がどうとか年配がどうとか、根拠が一切ない。
「いやまてよ、女は選挙権が最近まで認められてなかったじゃないか」「年寄りはからだをいたわらないとだめだろ」わかるけどね。すると当然こういう切り返しもくる「男は戦争で命張っただろう」「若者はこの先長いんだから伸び伸び成長させろ」
女性に最近まで選挙権がなかったのは事実だし、戦争で男がたくさん死んだのは事実だけど、黒人にも選挙権はなかったわけだし、女も戦争で工場に駆り出されてたりした。
問題の一面だけを見て、それをデカデカと取り上げるのは違うだろうということ。
社会問題は一つの問題じゃなくて、たくさんある問題の集合体であって、その一つ一つの問題にも矛盾があってでっかい「社会問題」になっているのだから。
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主観と客観を綺麗に切り分けるのは相当難しい。数字は客観的であっても、それを解釈する時には人の主観が入り込む。
相手を批判するときは、同時にその批判が問題を含んでいることを省みることが必要。省みることで、相手の思考が理解できて、初めて議論が「建設的」になる。
価値観の押し付け合いは基本的に建設的ではない。ただの「理性的」という看板を掲げた愚かなストレス発散に過ぎない。
つまり「うっせぇわ」が生まれた背景には若者のストレスがあることを理解してもらわないと話は進まない。同時に「うっせえわ」を歌う我々も年配の思考回路を分析しないとなにも理解してもらえない。
理解されないとどうなるか。それこそ社会分断が起こる。
優しさっていうのは、相手を理解しようと努めることだと思いました。愛だよ愛。ラブアンドピース。
議論は相手に勝つことじゃなくて、より良い結論を出すための協力プレーなんですよ。たぶん。