〈937.棚ぼたの話〉
4月21日。
非常に抽象的な話。不幸は突然降ってくるけど幸は突然降ってこない。
なんでだ。
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例えば交通事故だったり、そこまでじゃなくても鳥のフンが頭に落ちてきたり。そういう不幸は予期できない。
一方で突然ぼたもちが落ちてくることはほとんどない。もちろん、赤信号に一度も引っかからずに家に帰れた時なんかは幸かもしれない。だが、そんな幸に価値を見出す人はあんまりいないだろう。
つまり、突然降ってくる幸はそんなに価値がなくて、でも突然降ってくる不幸は大小こそあれ嫌な気分になる。
つまり、幸は不幸な状態を知っているからこそ価値がある一方で、不幸はどんなことでもマイナスの価値をもってやがる。
この対照的な関係がどうにかできないものかしら。
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しかしそれも仕方ないことだ。不幸なことに敏感になるというのは、危機回避能力を高める意味がある。動物は種の保存が第一だという仮定に立てば、命を守るためにも危険察知しないといけない。仕方ないことだ。
とはいえちょっとした幸せにも気づければより良く生きられるのに。そういう「より良く生きる」というのはごく最近の文化的流行に過ぎないんだろう。
犬を見ていると良くわかるけど、彼らはよりよく生きるためにどうしようとは考えていないと思う。目の前のおやつであったり、散歩だったりを最大限楽しんでくれる。幼稚園生と似たような感覚である。
より良く生きることを考えるようになるのは中学生から高校生くらいで、人によっては20代30代になることもあるだろう。それくらい「より良く生きることを考える」というのは難しいことなんだと思う。
より良く生きるために幸せに気づくというのは、不幸を察知する動物的な本能と比べると極めてレベルの高い理性的な行いなんだろうと思う。
だから幸福を察知するためには不幸を察知するよりも感度をあげなくちゃならない。これはなかなか難しいことだろうさ。
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当然降ってきた幸福に価値を見出せないのは、より良く生きることに対して突然の幸福が果たしてくれる影響が小さいと判断するからだろう。
人の平均幸福度を仮に100とすると、棚からぼたもちが+1程度かもしれない。でも鳥のフンが頭に落ちてくると-5、-10くらいに感じてしまうかもしれない。マイナスな出来事はよりマイナスに感じるようにできているんじゃなかろうか。
だからこそ、棚からぼたもちを+5、+10に感じるように意識するとプラマイゼロになれるだろう。
小さな幸せを、改めてエエヤン!って思う時間を確保すると、メンタルの耐性が高くなるかもしれないですね。